ただの「一日(ついたち)」。
だが、この国には、月の初日をただの日とは見なさない文化がある。それが 「朔日参り(ついたちまいり)」――
月替わりを神に報告し、新たな月に感謝と祈りを捧げる習俗だ。
月の初日を「始まりの日」とする意識
古来、日本人は“暦”を単なる日付の並びではなく、自然のリズムを体感する器として捉えてきた。
とりわけ、月の満ち欠けに寄り添う和暦において、“朔(さく)”――すなわち、新月は特別な日だった。
空には月は見えない。だが、“何かが始まる予感”だけが漂う。その目に見えぬ力に呼応するように、人々は神前に立ち、今月に感謝し、来月を祈るようになった。
この「空っぽ」から始める感覚こそ、祈りの国・日本が育んだ時間感覚である。
朔日参りの二つの意味 ― 感謝と祈願
朔日参りには、主に二つの意味が込められている。
- 感謝(過ぎた月への御礼) - 無事に一月を過ごせたことへの感謝。それは“命が続いていること”そのものを喜ぶ感覚である。
- 祈願(新たな月への願い) - 新たな月に向けて、穏やかな気持ちで誓いを立てる。願いは、派手なものでなくて良い。「無事に過ごせますように」。それで十分なのだ。
つまり朔日参りは、過去と未来を神前で一度に結ぶ、“時間の祈祷”である。
朔日参りと「新嘗(にいなめ)」文化
旧暦の流れにおいて、11月は特に重要だった。収穫の感謝が高まる時期であり、宮中では新嘗祭の準備が始まる月でもある。
朔日の祈りは、“天地の恵みを次の月もいただく”という循環の中にあり、神に捧げる米・魚・塩――そのすべてが、自然とともに生きる人々の覚悟を象徴していた。
今でこそ経済や都市生活が中心となっても、生きる喜びと季節の節目を感じ取るこの感性は、日本的な“祈りの骨格”として息づいている。
“朔日餅” ― 祈りが形になった風習
伊勢神宮の門前町にある赤福本店では、毎月1日にだけ販売する「朔日餅」がある。
それは、月の始まりに心と体を整えるための“食の祈り”であり、人々が神に向かうリズムを形にしたものだ。
10人並ぶことはザラで、早朝4時に行列ができることもある。人は「いただく=祈る」を、食文化として継承しているのだ。
朔日参りの心構え
朔日参りは、必ず formal である必要はない。仕事の前に小さく手を合わせるだけでも良い。ただ、以下の二つを心に留めておくと、一層祈りが染み入るだろう。
先月への “ありがとう”
この月への “どうかよろしく”
祈りは願いというより、“感謝を伴う宣言”に近い。それが古神道の祈りの美しさである。
結び
2025年11月1日。秋は静けさの先へと移り、神在月の中心に向かう気配が漂い始める。
今日、神前で手を合わせるとき、それは「時間」に対する祈りであり、同時に「生きている今」を確かめる儀式でもある。
朔日参り――それは、未来に投げかける祈りというよりも、今ここにある静かな始まりを、丁寧に味わう時間なのだ。



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