掃いても、舞い、積もる。けれど、その繰り返しこそが、神社の季節の呼吸である。
秋の神社では、落ち葉の掃き清めが欠かせない。それは単なる美化活動ではない。“祓(はらえ)”の実践そのものなのだ。
落ち葉を払うという祈り
神職や氏子が境内を掃く姿には、古代からの「祓(はらえ)」の思想が宿っている。
落ち葉は、春から夏へと命を支えた樹々の記憶。それが地に還ることで、次の命の循環が始まる。
その過程で人が「掃く」行為を行うのは、自然の浄化に人の祈りを添える儀式でもある。
古神道において、“清め”とは単なる除去ではない。汚れを祓いながら、同時に再生を促す。
落ち葉を掃く音のリズム――それは、祓詞(はらえことば)の響きに似ている。
「祓(はらえ)」と「掃(はらい)」の共通点
「祓う」という言葉は、「払う」「掃く」と同根である。つまり、祓いとは動作としての清め。
手で、箒で、音で、息で――あらゆる“動き”が神聖な行為となる。
古代では、神職が「大祓詞(おおはらえのことば)」を唱える際、その音によって空間の穢れを流した。
現代の神社で箒を動かす音も、それと同じ“祈りの振動”を持っている。
落ち葉が教える「無常の祓え」
落ち葉は、散ることを恐れない。樹々は古い葉を手放すことで、春に新しい命を迎える準備をしている。
神道の祓いもまた同じだ。古きを手放すことで、新しきを迎える。汚れを祓うとは、罪を否定することではなく、それを受け入れ、流すことで再生するという思想である。
境内の落ち葉が掃かれ、風に乗って消える――それは、神の世界に“穢れが還元される”瞬間なのだ。
「掃除=修行」という考え方
神社で奉仕を行う「清掃奉仕」は、単なる労働ではなく修行である。
朝日が差し込む中で箒を動かすと、自然と呼吸が整い、心が澄んでいく。
その時間、祈りの言葉を発さずとも、人は“神と同じリズム”で動いている。
実際、古神道の教えでは、「塵を払えば、心も晴れる」と説かれてきた。
物理的な掃除は、精神的な祓いの鏡映であり、清めるとは「気を整える」ことなのだ。
風と葉と祈り
風が吹き、葉が散る。それは自然の祓い。人の祈りと風の働きが重なるとき、神社の境内は“生きた清浄”となる。
神社に風鈴が下げられ、鈴が鳴るのも、音が穢れを祓うとされているからだ。
秋風に舞う落ち葉の音も、神々に捧げる“祓いの楽”といえる。
結び
2025年10月31日。秋の終わり、神無月の静寂。社の庭では、箒の音がサラサラと響く。
それは、祈りと季節を結ぶ“音の祓い”。
落ち葉を掃くたびに、心も軽くなる。手放すことが、祈りであり、再生の始まり。
落ち葉は地に帰り、また春に芽吹く。祓いとは、破壊ではなく、循環。秋の神社が教えてくれるのは――
すべては清めの中で巡っているという真理である。



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