名馬産した「馬上」、武将も下馬、2月に負い縄のおこない
[住所]滋賀県長浜市高月町馬上1181
[電話]-
走落神社(はしりおちじんじゃ/はせおちじんじゃ)は、滋賀県長浜市高月町馬上にある神社。北陸本線の高月駅の東約1.5キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「走落神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。奈良時代の神亀年間(724-29年)に創建されたと伝わる。往古、当村を走落村と称し、氏神の名を村の名称としたという。
平安時代前期の仁和年間(885年-889年)、当地で名馬が産し、これを第59代宇多天皇に献上したところ、大いに喜び、「馬上」の二字の辰筆の額が下賜された。
そこで、背後の山麓に一祠を建立してこれを納めたと伝わる。後にこの地を宇多山と称するようになった。
後に神託により鳥居に掲げられるようになった。その頃、北国の要衝として武門武将の往来が多く、この鳥居を通過する際は、必ず下馬、拝礼した後に乗馬したと伝える。
現在も、この鳥居の近くに馬乗場という地名が現存する。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の合戦に際し、豊臣秀吉が美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前で下車し、戦勝を祈願したと伝えられる。
江戸時代中期の天明7年(1787年)、大火により、一村すべてが焼失、鳥居の扁額や、社蔵の文書も焼失した。
境内地に接し、地藏堂(極樂寺)があり、かつては習合関係にあったという。明治9年(1876年)、村社に列し、明治41年(1908年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
境内末社に意富布良神社がある。もとは大洞山に鎮座していたが、明治42年(1909年)3月、当地に遷座したという。
この境内末社が、『延喜式神名帳』にある「意富布良神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)の論社。
他の論社に、市内木之本町木之本に鎮座し、裏山が大洞山と呼ばれ神域として信仰された同社および式内同名神社がある。
当社の御祭神は天児屋根命。神紋は立鹿。本殿は春日造で、間口2間、奥行2間3尺。拝殿は入母屋造で、間口3間、奥行2間3尺。例祭は4月9日。
2月9日におこないがあり、2月4日からの一連の神事は負い縄(おいなわ)神事とも呼ばれる。
2月4日から負い縄作りが始まる。2月7日、集会場前に天幕が用意されて餅つきをし、大鏡餅三個が集会場二階の床間に飾られる。
また、三本のケヤキの枝に当地で「ばい玉」と呼ばれる餅玉や、色紙がつけられ、集会場2階の天井に這うように飾られる。
9日、メインのおこないの日には、集会場2階広場の床間に負い縄3個、鏡餅3個が飾られ、その前に三方にのせられた御神酒、大鯉、鶏卵、果物、野菜、菓子などが準備される。
12時になると字の青年たちが紋付姿で参上し、酒宴が始まる。なかでも上座の餅担ぎの3名は、顔に一人は石地蔵、二人はヒゲ武者の厚化粧を施している。
13時になると、宮参り。負い縄の餅3人が先頭、次いで神に供える三方を持った紋付姿の青年十数名、ばい玉のついたケヤキ3本をそれぞれ2人の青年が担ぐ。
さらに、昨年生まれた女子3人が母親に背負われ、次いで村人と続く行列となる。3人の負い縄の青年は神の使いといわれ、この日ばかりは3人に逆らえない。
ブラリブラリと村中をまわり、愛想をふりまきながら各家で御神酒をいただき、祭りのムードを盛り上げるが、なかなか鳥居を潜らない。
やがて15時になると行列は動き出し、当社、意富布良神社、観音堂と三つに分かれ、鏡餅、ばい玉が供えられ、おこないの行事はすべて終わる。
昭和56年(1981年)以来、字を四等分し、30軒たらずがそれぞれ独立して行うようになり、字をあげての統一のおこないは5年に一度の祭事として行われるようになった。
境内にあるケヤキの大木は幹回り4.3メートル。高槻→高月の地名由来となった当地を代表する槻として、『槻の木十選』に選ばれている。
【ご利益】
地域安全、家内安全、無病息災

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走落神社(はしりおちじんじゃ/はせおちじんじゃ)は、滋賀県長浜市高月町馬上にある神社。北陸本線の高月駅の東約1.5キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「走落神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。奈良時代の神亀年間(724-29年)に創建されたと伝わる。往古、当村を走落村と称し、氏神の名を村の名称としたという。
平安時代前期の仁和年間(885年-889年)、当地で名馬が産し、これを第59代宇多天皇に献上したところ、大いに喜び、「馬上」の二字の辰筆の額が下賜された。
そこで、背後の山麓に一祠を建立してこれを納めたと伝わる。後にこの地を宇多山と称するようになった。
後に神託により鳥居に掲げられるようになった。その頃、北国の要衝として武門武将の往来が多く、この鳥居を通過する際は、必ず下馬、拝礼した後に乗馬したと伝える。
現在も、この鳥居の近くに馬乗場という地名が現存する。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の合戦に際し、豊臣秀吉が美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前で下車し、戦勝を祈願したと伝えられる。
江戸時代中期の天明7年(1787年)、大火により、一村すべてが焼失、鳥居の扁額や、社蔵の文書も焼失した。
境内地に接し、地藏堂(極樂寺)があり、かつては習合関係にあったという。明治9年(1876年)、村社に列し、明治41年(1908年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
境内末社に意富布良神社がある。もとは大洞山に鎮座していたが、明治42年(1909年)3月、当地に遷座したという。
この境内末社が、『延喜式神名帳』にある「意富布良神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)の論社。
他の論社に、市内木之本町木之本に鎮座し、裏山が大洞山と呼ばれ神域として信仰された同社および式内同名神社がある。
当社の御祭神は天児屋根命。神紋は立鹿。本殿は春日造で、間口2間、奥行2間3尺。拝殿は入母屋造で、間口3間、奥行2間3尺。例祭は4月9日。
2月9日におこないがあり、2月4日からの一連の神事は負い縄(おいなわ)神事とも呼ばれる。
2月4日から負い縄作りが始まる。2月7日、集会場前に天幕が用意されて餅つきをし、大鏡餅三個が集会場二階の床間に飾られる。
また、三本のケヤキの枝に当地で「ばい玉」と呼ばれる餅玉や、色紙がつけられ、集会場2階の天井に這うように飾られる。
9日、メインのおこないの日には、集会場2階広場の床間に負い縄3個、鏡餅3個が飾られ、その前に三方にのせられた御神酒、大鯉、鶏卵、果物、野菜、菓子などが準備される。
12時になると字の青年たちが紋付姿で参上し、酒宴が始まる。なかでも上座の餅担ぎの3名は、顔に一人は石地蔵、二人はヒゲ武者の厚化粧を施している。
13時になると、宮参り。負い縄の餅3人が先頭、次いで神に供える三方を持った紋付姿の青年十数名、ばい玉のついたケヤキ3本をそれぞれ2人の青年が担ぐ。
さらに、昨年生まれた女子3人が母親に背負われ、次いで村人と続く行列となる。3人の負い縄の青年は神の使いといわれ、この日ばかりは3人に逆らえない。
ブラリブラリと村中をまわり、愛想をふりまきながら各家で御神酒をいただき、祭りのムードを盛り上げるが、なかなか鳥居を潜らない。
やがて15時になると行列は動き出し、当社、意富布良神社、観音堂と三つに分かれ、鏡餅、ばい玉が供えられ、おこないの行事はすべて終わる。
昭和56年(1981年)以来、字を四等分し、30軒たらずがそれぞれ独立して行うようになり、字をあげての統一のおこないは5年に一度の祭事として行われるようになった。
境内にあるケヤキの大木は幹回り4.3メートル。高槻→高月の地名由来となった当地を代表する槻として、『槻の木十選』に選ばれている。
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