白鳳期の鎮座、山腹三座と里宮、江戸前期以来のお塔神事、紅葉名所
[住所]滋賀県長浜市木之本町木之本488
[電話]0749-82-3990

意富布良神社(おほふらじんじゃ/おおふらじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町木之本にある神社。北陸本線の木ノ本駅の東すぐ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「意富布良神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

草創は飛鳥時代、第40代天武天皇の御代、白鳳4年(676年)の鎮座と伝わる。裏山の大洞山は古来霊峰として神域だった。

山腹に神前神社(猿田彦命)、乃彌神社(八意思兼神)、蟻通神社(大穴持遅命)の三社があり、麓に里宮があった。

麓の宮は王布艮天王社あるいは天王宮と呼ばれ、奈良時代には神宮寺とも称された。御祭神は牛頭天王、田上天王とも称した。

かつては田部地先の北国往還路に一の鳥居があり、旅人が乗馬のまま通るとよく落馬したという伝えがある。

平安時代末期の寿永2年(1182年)5月、木曽義仲が上洛の途次、当社に祈願し、その時兜を置いた石を「兜石」と各付け、現存している。

当地は、室町時代以降枢要の地として、武門武将の往来が多く、湖北の武将である佐々木、また京極に属した武将井口弾正正氏が当社を深く崇敬した。

応安6年(1373年)12月、僧寛順願主井口弾正源正氏と銘記された大般若経が寄進されている。足利時代以降、地方武家の尊崇も篤かった。

安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、織田信長が小谷城攻略の際、田上城も攻め、城主朝倉義景は敗北、同時に山腹の三社も焼失した。

御神像は難を逃れ、麓の天王宮に合祀された。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の合戦に際して再び兵火に遭遇した。

慶長6年(1601年)、豊臣秀頼が再建し、江戸時代になっても、その前期の延宝4年(1676年)には井伊玄蕃頭が奉拝した。

明治初年(1868年)、王布良天王と呼ばれていたが、明治6年(1873年)には現社号に改称。明治18年(1885年)には郷社に、大正14年(1925年)には県社に昇格した。

現在までに御祭神は建速須佐之男命。大穴牟遅神・猿田彦神・八意思兼神を合祀し、梨迹臣命を配祀している。

例祭4月2日。3月18日に秋葉大祭があり、3月11日はおこないで、お塔神事。江戸時代前期の延宝4年(1676年)より行われている。

14ヶ町に分かれている氏子で、毎年1ヶ町ずつが頭人を選んで神事を務める。頭人宅では1斗の御鏡、欅の木にまゆ玉をつけ、これに藁をつける。

さらに牡丹・あやめ・百合・菊などの造花をたくさん作り、これらとともに町内を鉦・太鼓で練り歩く。また子供達にはぜんざいが振るまわれる。

摂社に豊栄神社、神明宮、末社に天満宮、稲荷社、境内地外に秋葉神社、五社宮、金比羅宮がある。

もとから紅葉の名所として知られていたが、数年前から夜間のライトアップが始まっており、まだあまり知られていない絶景スポットになっている。

なお、式内社「意富布良神社」の論社は他に、市内高月町馬上の走落神社の境内社がある。

【ご利益】
厄災除け、交通安全、学業・受験合格、事業成功
意富布良神社 滋賀県長浜市木之本町木之本
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