奈良初期の鎮座、芝原郷8ヶ村の鎮守、10月2日に鳳輦廻し巡行
[住所]福井県吉田郡永平寺町松岡春日3-2
[電話]0776-61-0287

柴神社(しばじんじゃ)は、福井県吉田郡永平寺町松岡春日にある神社。えちぜん鉄道勝山永平寺線の松岡駅の南約900メートル。国道416号線の勝山街道を越える。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「柴神社(越前国・坂井郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

社伝によれば、第44代元正天皇の御代、奈良時代初期の養老元年(717年)に鎮座したと伝わる。柴原ノ庄、第一の総社であり、柴ノ神社と称したという。

『越前国坂井郡東大寺領莊園ならびに口分田班給復原図』には、現在の九頭竜川右岸の坂井平野の中核に柴社・神田・柴社西里などの地籍名が記されている。

平安時代、上柴社と下柴社に分かれ、上流左岸丘陵に従四位上柴神が祀られ、中世より春日信仰と結びついて、「春日大明神」と称し、芝原郷8ヶ村の鎮守として崇敬された。

正倉院文書には「豊島連が御料田を治めた」と記されるが、社伝では、戦国時代の天文年間(1532年~1555年)、占部中務が社家の初代としている。

中世、一向一揆の兵火によって焼失するが、安土桃山時代の天正19年(1591年)に北ノ庄に入封された堀秀治が再興した。

江戸時代に芝原の地に福井分藩松平昌勝が入封、館第が鎮座地に築かれたので、万治3年(1660年)、現在地に遷座した。旧地は松岡古墳群の古代祭祀場だという。

江戸時代中期の宝永元年(1704年)、城下繁栄のため「お渡り」が奨励され、毎年9月の祭礼に「御手鉾渡り」が御旅所との間で実施され、城下町は多いに賑ったという。

江戸時代の藩政下では、宝泉院・青松寺が別当支配し、神仏分離まで別当職と神職(社人)が奉仕していた。宝泉院は享保9年(1724年)、吉祥院に改称した。

深見・曽万布村の社領50石、5人扶持、荒子1人。明治4年(1871年)2月に春日社別当職の廃止によって、吉祥院は福井の不動院に合併された。

同年10月15日、春日神社をもとの現社号に復し、郷社に列した。大正元年(1912年)8月20日、神饌幣帛料供進社に指定された。

昭和23年(1948年)6月、福井大震災で本殿・拝殿が倒壊し、神輿・手鉾などを失った。しかし戦後の困窮の中、氏子の赤誠奉賛によって再建が進んだ。

昭和25年(1950年)に間口1間、奥行1間の本殿と間口3間、奥行2間の仮拝殿を改築し、昭和52年(1977年)、「本庁のモデル神社」の指定を受け、神域が整備された。

昭和59年(1984年)、氏子参集館が建設された。また、33年に一度の「御座祭」(みくらまつり)が斎行された折に「お渡り」神事が復活、鳳輦の巡行が実施された。

以来、毎年「お渡り」神事が行われている。御祭神は、武甕槌命天児屋根命斎主命・姫大神。従四位上柴社神が配祀されている。

例祭は5月3日が春季例祭、10月3日が秋季大祭。秋季大祭は秋祭りで、前日に鳳輦(ごほうれん)廻し巡行が執行される。

春季例祭は初祭りで、5月3日の本祭礼では、13区からなる各町内から子供神輿が出る。また、太鼓好きが集まって、自由に太鼓を打つ「のら打ち」が行われる。

境内社として、社前に剣神社があり、境内左手にも大国社、稲荷社、稲荷社を合祀した日吉社などがある。

【ご利益】
厄災除け、事業成功、地域安全
柴神社 福井県吉田郡永平寺町松岡春日
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