もとは継体天皇ゆかりの地、異国船撃退の弓矢の神、4月に雄島祭り
[住所]福井県坂井市三国町安島23-15-1
[電話]0776-81-2959
大湊神社(おおみなとじんじゃ)は、福井県坂井市三国町安島にある神社。雄島とその対岸に陸の宮がある。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』越前国坂井郡にある「大湊神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
雄島は周囲2キロ、約1時間程度で周囲を一周出来る小さな島で、当社はこの島全体と対岸の安島に鎮座する陸ノ宮(あげの宮)までも含めた広大な社地を有する。
対岸の安島と、日本海に浮かぶ雄島を約200メートルの朱塗りの神橋がかかり、「島の神社」として幻想的な風景を醸し出している。
手付かずの原生林が残る雄島は、パワースポットとしてはもちろん、一部では心霊スポットとも呼ばれている。
近江国高島郡の三尾は、第26代継体天皇の父である彦主人王の別宅があった。そこへ越前国坂井郡から振媛を迎えて、男大迹王(後の継体天皇)が誕生した。
しかし、間もなく彦主人王が没したため、振媛は故郷の鷹向へ帰り、当地で男大迹王を養育したと伝えられる。越前国坂井郡には水尾、また三尾駅がある。
当社ももとは近江の三尾氏の一部が、越前に移住して、祖神を祀ったものと推測されている。古い文献では御祭神を三尾君の祖神(三尾大明神・磐撞別命)とする。
現在の公式の由緒は、飛鳥時代の白雉年間(650年-654年)の勧請と伝わる。御祭神は、事代主神・少彦名命。往昔異国の軍船が当国へ渡来した。
その時、当社神らが松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)において、霊験を顕わし、夷賊を退治したという。これが第42代文武天皇の耳に達した。
大宝元年(701年)2月20日、勅使が当浦に下向し、3700石の社領を寄進・下賜したと伝わる。これより当社を弓矢の神として崇敬されるようになった。
参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納したという。また、海上守護の神であり、当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝し、船の危難除に神前の矢の羽を願いうけた。
文治2年(1186年)秋、源義経が奥州へ下降する途中、当地に止宿し、当社に参拝して、家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願した。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、朝倉義景が参拝、一門の祈願所に定め、社領などを寄進した。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)までは社家7軒で社務が執行されたが、織田信長の侵攻に伴い、当社殿は兵火に罹り、社領はことごとく没収された。
神主が不在となり、社家7軒のうち6軒までが他業に転じ、特殊神事なども行われなくなり、中絶した。ただし、古の二タ手(ふたて)の矢の神射式の様子は今に伝わる。
毎年2月20日より10日間、陣ヶ岡において、神主や村役人などが集まり、海上に向って怨敵退治の儀式が行われた。
海上に向って「ヤヤノオカカノカドサンテ シュー」と一声に唱えて矢を射ったという。この様子の歌が残されている。
もとはヤナギ屋敷と呼ばれた地に鎮座し、大物主神・三穂須々美神を祀った。傍らには大井戸があり、いかなる干ばつでも枯れることはなかった、という。
この井戸の水を御膳水とした。また、近くには神座石と称する石があった。古くは当社の御輿渡行の際、楊瀬神社の旧跡にも駐輦したという。
当社はその後、福井藩主松平忠直が社殿の造営を行い、20国の社領を寄進、領内大社の14社の一つに位置付けられ、祈願所とした。
この時再建された本殿が現在のもので、江戸時代初期の元和7年(1621年)、大工は石井備中宗行だった。県の文化財に指定されている。
以降、神射式と同様途絶えていた御旅所への神事祭も復興し、お獅子さまと親しまれるようになった。現在の春の渡御の神事である。
「三保大明神」「三尾大明神」「安嶋八幡宮」とも呼ばれたが、明治8年(1875年)、郷社に列し、明治41年(1908年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
明治45年(1912年)6月、無格社大神宮(天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神)と境内社八幡宮(応神天皇)を合祀した。
例祭は4月20日で例大祭、雄島祭り。朝、塔社で雅楽の演奏と神事を行い、10時頃からハッピ姿の人達が当社に集まり、青年団による獅子舞が行われる。
その後、子供神輿・乙女神輿・船神輿の三つの神輿が当社を出発。神輿は安島中を太鼓の音とともに練り歩き、船神輿は安島漁港を泳いで横断する。
夜になり、当社に戻り終了する。漁村独特の活気のある祭りで、一年の無事と大漁を願うもの。また、3月20日-21日にはお獅子祭(神幸祭)がある。
【ご利益】
海上安全、大漁満足、商売繁盛、リフレッシュ

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[電話]0776-81-2959
大湊神社(おおみなとじんじゃ)は、福井県坂井市三国町安島にある神社。雄島とその対岸に陸の宮がある。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』越前国坂井郡にある「大湊神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
雄島は周囲2キロ、約1時間程度で周囲を一周出来る小さな島で、当社はこの島全体と対岸の安島に鎮座する陸ノ宮(あげの宮)までも含めた広大な社地を有する。
対岸の安島と、日本海に浮かぶ雄島を約200メートルの朱塗りの神橋がかかり、「島の神社」として幻想的な風景を醸し出している。
手付かずの原生林が残る雄島は、パワースポットとしてはもちろん、一部では心霊スポットとも呼ばれている。
近江国高島郡の三尾は、第26代継体天皇の父である彦主人王の別宅があった。そこへ越前国坂井郡から振媛を迎えて、男大迹王(後の継体天皇)が誕生した。
しかし、間もなく彦主人王が没したため、振媛は故郷の鷹向へ帰り、当地で男大迹王を養育したと伝えられる。越前国坂井郡には水尾、また三尾駅がある。
当社ももとは近江の三尾氏の一部が、越前に移住して、祖神を祀ったものと推測されている。古い文献では御祭神を三尾君の祖神(三尾大明神・磐撞別命)とする。
現在の公式の由緒は、飛鳥時代の白雉年間(650年-654年)の勧請と伝わる。御祭神は、事代主神・少彦名命。往昔異国の軍船が当国へ渡来した。
その時、当社神らが松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)において、霊験を顕わし、夷賊を退治したという。これが第42代文武天皇の耳に達した。
大宝元年(701年)2月20日、勅使が当浦に下向し、3700石の社領を寄進・下賜したと伝わる。これより当社を弓矢の神として崇敬されるようになった。
参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納したという。また、海上守護の神であり、当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝し、船の危難除に神前の矢の羽を願いうけた。
文治2年(1186年)秋、源義経が奥州へ下降する途中、当地に止宿し、当社に参拝して、家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願した。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、朝倉義景が参拝、一門の祈願所に定め、社領などを寄進した。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)までは社家7軒で社務が執行されたが、織田信長の侵攻に伴い、当社殿は兵火に罹り、社領はことごとく没収された。
神主が不在となり、社家7軒のうち6軒までが他業に転じ、特殊神事なども行われなくなり、中絶した。ただし、古の二タ手(ふたて)の矢の神射式の様子は今に伝わる。
毎年2月20日より10日間、陣ヶ岡において、神主や村役人などが集まり、海上に向って怨敵退治の儀式が行われた。
海上に向って「ヤヤノオカカノカドサンテ シュー」と一声に唱えて矢を射ったという。この様子の歌が残されている。
弥生三日 浜のわらべの 歌声に ややのおかかの かどさせと呼ぶこの天正の混乱で、当社は大破した楊瀬神社を合祀した。『延喜式』神名帳越前国坂井郡にある「楊瀬神社」に比定される式内社(小社)。
もとはヤナギ屋敷と呼ばれた地に鎮座し、大物主神・三穂須々美神を祀った。傍らには大井戸があり、いかなる干ばつでも枯れることはなかった、という。
この井戸の水を御膳水とした。また、近くには神座石と称する石があった。古くは当社の御輿渡行の際、楊瀬神社の旧跡にも駐輦したという。
当社はその後、福井藩主松平忠直が社殿の造営を行い、20国の社領を寄進、領内大社の14社の一つに位置付けられ、祈願所とした。
この時再建された本殿が現在のもので、江戸時代初期の元和7年(1621年)、大工は石井備中宗行だった。県の文化財に指定されている。
以降、神射式と同様途絶えていた御旅所への神事祭も復興し、お獅子さまと親しまれるようになった。現在の春の渡御の神事である。
「三保大明神」「三尾大明神」「安嶋八幡宮」とも呼ばれたが、明治8年(1875年)、郷社に列し、明治41年(1908年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
明治45年(1912年)6月、無格社大神宮(天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神)と境内社八幡宮(応神天皇)を合祀した。
例祭は4月20日で例大祭、雄島祭り。朝、塔社で雅楽の演奏と神事を行い、10時頃からハッピ姿の人達が当社に集まり、青年団による獅子舞が行われる。
その後、子供神輿・乙女神輿・船神輿の三つの神輿が当社を出発。神輿は安島中を太鼓の音とともに練り歩き、船神輿は安島漁港を泳いで横断する。
夜になり、当社に戻り終了する。漁村独特の活気のある祭りで、一年の無事と大漁を願うもの。また、3月20日-21日にはお獅子祭(神幸祭)がある。
【ご利益】
海上安全、大漁満足、商売繁盛、リフレッシュ

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