平清盛が崇敬した牛頭天王社、式内・布久漏神社か、狛犬
八雲神社 福井県あわら市北潟46-30
[住所]福井県あわら市北潟46-30
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八雲神社(やくもじんじゃ)は、福井県あわら市北潟にある神社。日本海にほど近く、東には北潟湖が広がっている。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「布久漏神社(越前国・坂井郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格は村社。

創祀年代は不詳。『越前国官社考』に「北潟浦と濱住浦との中間に布久呂社があるが、それは北潟浦の産神として天王社となっている」との記載があるという。

当社もとは天王社であり、牛頭天王を祀っていた。他の論社に、いずれも市内で、丸岡町北横地の式内同名神社丸岡町春江町の八幡神社がある。

ただし、当社はもとは王城の鎮守だったが、第77代後白河天皇(1155年-1158年)の時代に若狭国の浦へ流神となったともいう。

仁平年間(1151年-1154年)、当村の浜字五本松に漂着し、漁民が祀った、とも。そうであれば、越前国での奉斎は『延喜式』後になる。

当社の南方に旧別当寺の安楽寺がある。安楽寺とその牛頭天王社、つまり当社は平安時代末期、平清盛に崇敬されたと伝えられる。

当社と安楽寺は古くから深い繋がりがあり、祭礼は安楽寺を中心に斎行され、氏神は安楽寺で一泊、氏子達と一夜を過ごした。神渡りの御神輿は安楽寺本殿内に保管された。

清盛は当国の押領使藤原左衛門実澄に命じて、当社を造営、神領を寄附したという。その際の社領は200石に達したという。平家没落により、当社も衰退した。

ただし、平家没落後に、安徳天皇を勧請、奉斎した逸話が残されている。それによれば、北力浦に夜々、光が見られた。

不思議に思った村民が確認すると、海に浮かぶ御座船があり、牛頭天王ともども標高86.9メートルの経塚山とも呼ばれる後山に勧請したという。

御神体を担ぎ、崖をよじ登った村人を「がけ」、担ぎあげた村人を「かつき」と、それぞれ姓を授かったという。

しかし、当地を通行する人はもちろん、馬上の人は下馬し、海上の船は帆を下げ拝礼し通行したため、秘合祀の安徳天皇が知れ渡れるのが心配された。

そこで、現在地の標高51.9メートルの天王山に遷座したと伝わる。天王さま・天王さん親しまれ、崇敬されたという。

南北朝時代、林城城主で越前守十五代林六郎太夫光明の代に、北潟浦の氏神と定められたともいう。

幕末の慶応4年(1868年)3月28日に神仏分離の令が出されて以降、当社も現社号に改称した。明治5年(1872年)、村社に列した。

明治40年(1907年)、本殿を二間四方に、拝殿を二間半四方に改築。明治44年(1911年)5月、神饌幣帛料供進社に指定された。

戦時中、重傷を負い、水を欲した兵の夢枕に、当社神が現れ、傷が癒えたこの兵が当社に参拝したところ、当社に水を供えて武運長久を祈る参拝者が多くなったという。

御祭神は、速須佐之雄尊。安徳天皇と罔象女命を合祀している。例祭は7月第4土曜日。境内には、境内社一宇、石祠が祀られている。

鞘堂内の本殿前に置かれでいる一対の木製狛犬は、鎌倉時代から室町時代にかけての中世の作で、県内でも相当古いものとされ、市の文化財に指定されている。

その関係からか、当社には数多くの狛犬が安置されており、それぞれに興味深い様相を見せ、狛犬ファンにはたまらない神社になっている。

【ご利益】
厄災除け、悪疫退散、武運長久・勝運、病気平癒
八雲神社 福井県あわら市北潟
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