国宝の木造追儺面三面は年一回2月11日「おこない」の際に御開帳
[住所]福井県鯖江市川島町27-22
[電話]0778-53-2257

加多志波神社(かたしはじんじゃ)は、福井県鯖江市川島町にある神社。北陸本線の鯖江駅の東約4キロ、三里山北麓。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「加多志波神社(越前国・今立郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。式内社「加多志波神社」の論社は他に、「片嶋神」と呼ばれた、市内吉谷町の春日神社がある。

社伝によれば、南北朝時代初期の延元年間(1336年-1340年)、足利高経と新田義貞が鯖江府中で戦っていた頃、川島左近蔵人惟頼の崇敬が篤かったという。

広壮な社殿があったというが、その後衰微したという。現在も、国宝の木造追儺面、木造聖観音菩薩立像、三重塔跡など、往時の繁栄を物語る文化財がある。

御祭神は多加意加美神。例祭は8月23日。毎年2月11日には、餅をまいて厄を払う神事「おこない」が境内で行われる。

一年でこの日に限って、宝物庫の扉が開かれ、3面の追儺面の見学が許される。いわゆる御開帳。この面の由来は定かではない。

昔、高太(旧国高村)から川に流されたものを、川島の古老が拾い揚げて奉祀したと伝えられている。「お面様」と慕われてきた。

父・子・母の三鬼面からなり、鎌倉時代後期の秀作。薄手の良質な桧材に良質の漆と金箔が用いられ、当時の最高技術の仕上げで、「追儺面」としては稀代の逸品である。

大正12年(1923年)、大旱魃の際にこの面に対して雨乞いしたところ、慈雨が降ってきたということから、特に御神体として尊崇されるようになったともいう。

社殿は、拝殿と後方に本殿がある。本殿の周囲には、板の雪囲いがある。社殿の後方へ続く道があり、細い道を進むと塔佛堂(塔仏堂)があり、さらに下ると観音堂がある。

塔仏堂は三重塔跡に建てられたもの。江戸時代の文献には、三重塔婆跡、五重塔などの記載があり、江戸時代前期の寛文2年(1662年)の地震で倒壊したという。

現在の塔仏堂は小規模なものだが、その割には大きな礎石がそえられており、往時の多重塔の規模がうかがい知れる。また、その多重塔の建材が再利用されたという。

当社の社叢は、スギを中心とした針葉樹林で、目通り300センチを超えるものも珍しくない。中には目通り552センチという市内最大級のスギも存在する。

伝えによれば、参道奥に位置する社殿(観音堂)は折れた杉の大木を利用して建てられたという。建材の太さや幅、長さから、相当の大木だったようだ。

「加多志波神社の社叢」として、市の天然記念物に指定されている。また、「旧八幡神社鳥居台石」がある。

鳥居の木造部分が失われ台石だけが残ったもので、枘穴間の距離は380センチ。当社に伝来する「鬼面箱」の墨書にその由来が記されている。

それによると、安土桃山時代の元亀元年(1570年)正月26日、敦賀郡司であった朝倉九郎左衛門景紀が孫の七郎とともに、敦賀の5人の大工に命じて建立したもの。

景紀と七郎は当時、自領の川島庄蓮華寺の奥坊光厳寺に居住していた。この鳥居台石は市内最古の鳥居遺構であり、建立の由緒も明らかで貴重である。

【ご利益】
五穀豊穣、地域安全、身体壮健
加多志波神社 福井県鯖江市川島町
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