式内三座の論社、継体天皇宮居跡、越前万歳、謡曲「花筐」発祥地
味真野神社 福井県越前市池泉町21-18
[住所]福井県越前市池泉町21-18
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味真野神社(あじまのじんじゃ)は、福井県越前市池泉町にある神社。北陸本線の武生駅の東約7キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「須波阿須疑神社三座(越前国・今立郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。伝承によれば、当社境内は第26代継体天皇の宮居跡だという。鳥居の近くに、「継體天皇御宮跡」と刻まれた石碑が建っている。

伝承によれば、往古、五分市池田に須波阿須疑神社三座が鎮座しており、中古、三柱の御祭神を三社に分離して奉斎するようになったという。

上の宮として池泉字諏訪上割に諏訪神社を、下の宮として五分市南西村に諏訪神社を、本宮として当社を建て、総社、または伊弉諾神社と称したという。

なお、式内社「須波阿須疑神社三座」の論社は先の諏訪神社以外で、今立郡池田町の須波阿湏疑神社、市内南中町の須波阿津疑神社がある。

明治12年(1879年)、総社神社に改称した。明治40年(1907年)、五分市的場に鎮座し、継体天皇とその皇女で伊勢斎王の第六皇女佐々宣姫を祀る野々宮神社を合祀した。

明治41年(1908年)、余川字宮ノ下に鎮座し、勝手明神と称した、式内社である村社小山田神社(愛鬘命)を合祀した。同年、下記の神社を合祀、現社号に改称した。

・池泉字諏訪上割の諏訪神社(上の宮)
・大坪字清水の村社白山神社
・野大坪字東畑の村社白山神社
・余川字上手の菅原神社
・余川字上境谷の神明神社
・池泉字掘割の八幡神社
・大坪字清水山の大神宮
・余川字南の八幡神社など

大正元年(1912年)、掘割の御所神社と合併し、現在に至る。御祭神は、継体天皇・佐々宣王・伊弉册尊大国主命・大己貴命・天照大神建御名方命事代主命

例祭は10月7日。毎年1月1日には越前万歳が奉納される。継体天皇と関係する郷土芸能として地元の人に親しまれ、古い歴史を持っている。

即位前の継体天皇が味真野にいた時、皇子の愛馬が馬草を食べなくなった。そこで宇津保の舞を演じたところ、馬の病気が回復したと伝えられる。

これが越前万歳の始まりと言われている。弓形の「ばち」でこすりながら叩く「すり太鼓」が特徴で、国の無形民俗文化財に指定されている。

余川町の小山田神社から移ってきたとされる木造聖観音菩薩坐像がある。平安時代末期の作と推定される。

浅い彫り口で柔らかな肉付けの穏和な像容で、小振りな目鼻口のやさしげな顔が特徴である。市の有形文化財に指定されている。

また、現在地は「鞍谷御所址」として、市の史跡。室町末期の鞍谷氏の館の一部。現在は境内をコの字に囲むようにして北・西・南面の土塁と、北・西面の空掘を残している。

最近の説では、斯波義俊の館跡といわれる。義俊は、応仁の乱の原因にもなった斯波家家督相続争いの斯波義廉の子息。

朝倉氏によって名目上の守護として越前に迎えられ、始めは一乗谷に在住したが、文明18年(1486年)、当地に移った。

さらに当社は、謡曲「花筐(はながたみ)」の発祥の地とされる。雲の上人と里の女との隔てない恋を美しく描写した狂女物。

第25代武烈天皇が崩御し、越前国味真野にいた男大迹皇子が選ばれて皇位を継いだ。寵愛されていた「照日の前」に、文と花筐を形見として残した。

皇子は即位して継体天皇となり、ある日の御幸の折、狂い歩く女を見かけた。持っていた花筐から、皇子を慕う「照日の前」と分かり、都に連れて帰った。

「花筐」ゆかりの地として、越前市粟田部町に岡太神社がある。その岡太神社には、当社が比定されている式内社と同名の境内社がある。

ちなみに、当社が合祀した小山田神社の旧地が元小山田神社として残る。ただし、その至近に、御祭神は違うものの、やはり勝手明神と呼ばれ、旧村社の小山田神社がある。

なお、市内片屋町の鵜甘神社の境内社にも、やはり小山田神社(住吉神社)がある。

【ご利益】
一族・子孫繁栄、事業成功、開運招福、縁結び
味真野神社 福井県越前市池泉町
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