飛鳥時代に発見された塩水の泉、江戸後期から戦前までは塩出の湯
多久比礼志神社 富山県富山市塩690
[住所]富山県富山市塩690
[電話]076-467-0194

多久比礼志神社(たくひれしじんじゃ、多久比禮志神社)は、富山県富山市塩にある神社。神通川東岸、高山本線の東八尾駅の北東約2.5キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「多久比禮志神社/多久比礼志神社(越中国・婦負郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

社伝によれば、飛鳥時代の白鳳元年(672年)4月、林宿禰弥鹿伎が神通川を船で遡っていると、白髪の老人が現われた。

その、白髪の老人は向こうの川辺の松の木の際の泉が塩水であることを伝えると、姿が見えなくなった。一行がその言葉に従って船を進めると、森に囲まれた泉があった。

その水を煮つめると塩が得られた。白髪の老人は国魂神で、これはこの地を開拓せよという神託であろうと、社殿を建てて祀ったのが当社の始まりである。

また、林宿禰弥鹿伎の夢の告げにより、尊き品を探している時に、その所在を、白髪の老人が教えたとも伝わる。

鎮座地名の「塩」もこのことにちなむものである。また、当社は古くから塩宮(しおのみや)とも呼ばれた。

以上のように、当社は塩と縁の深い神社である。しかし式内社「多久比礼志神社」について、多久比禮はすなわち栲布(たくぬの)で作った領巾の意、ともされる。

そのため、むしろ織布の神を祀る社こそがふさわしい、という説があり、呉羽町の姉倉比賣神社、黒瀬北町の日宮神社、五福の呉服神社が論社となっている。

ただし、五福には現在、呉服神社はない。五福に隣接する茶屋町の豊栄稲荷神社の境内末社に呉羽社があるが、関係は不明。

当社は南北朝時代の正平24年(1369年)、兵火で焼失したが、天授2年(1376年)には再建された。安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、再び兵火で焼失した。

当社縁起にある泉は塩出の湯と呼ばれた。江戸時代後期の天保8年(1837年)10月、中大久保の野崎権四郎によって、初めて浴舎が建てられ、開湯したといわれる。

弘化4年(1847年)10月に火災で焼失したが、その後も病を治そうと各地から塩泉を汲みに来る人が多かった。

明治初年(1868年)、郷社に列し、明治34年(1901年)6月には上大久保の大浦重平により再び開湯された。

明治40年(1907年)4月、神饌幣帛料供進社に指定された。昭和15年(1940年)、塩出の湯は廃湯となり、今では残った薬師堂だけが地元の人の手によって祀られている。

御祭神は、彦火火出見命豊玉姫命鹽土老翁。例祭は4月12日。

【ご利益】
健康長寿、病気平癒、縁結び、安産
多久比礼志神社 富山県富山市塩
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