姉倉比賣が流された大竹野、越中最古、上杉謙信の崇敬
[住所]富山県富山市呉羽町1813
[電話]076-436-5459
姉倉比賣神社(あねくらひめじんじゃ)は、富山県富山市呉羽町にある神社。あいの風とやま鉄道の呉羽駅の南すぐ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』越中国婦負郡にある「姉倉比売神社」「多久比禮志神社/多久比礼志神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。姉倉姫神社とも。
御祭神は姉倉比賣命。『肯構泉達録』によれば、船倉山の神だった姉倉比賣命は、能登の伊須流伎比古と夫婦だったが、伊須流伎比古は、能登媛と契りを交わしてしまった。
怒った姉倉比賣は、一山の石を投げ尽くして、能登媛を攻撃した。大乱となったため、大己貴命が越路へ赴き、乱を鎮圧した。
責任を問われた姉倉比賣は大竹野(小竹)に流され、布を織って貢物とし、婦女に紡織を教え、罪を償うことになった。
姉倉比賣は娘たちに機織りを教え、村人たちには仕事に精を出すように励ましたので、誰からも慕われるようになったという。
当社地はまさにこの小竹の地。姉倉比賣はその後許されて船倉山に帰った。その船倉の地にも当社と同名の神社があり、やはり式内論社になっている。
あるいは、第10代崇神天皇の御代、姉倉比賣は当地の賊を征伐・統治し、後に農耕と養蚕を地元民に広め、特に機織の神として崇敬されたともいう。
社伝によれば、第11代垂仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧に向かった。その際、御祭神の霊夢を受けた。
そこで、陣所の四方に祠を建て、天神地祇を祀り、戦勝を祈願したところ、勝利を収めたという。報恩により社殿などが整備された、と考えられる。
奈良時代の天平9年(737年)、仏像経典を納め、神仏混合が始まった。呉羽の宮とも、大竹大明神とも呼ばれるようになった。
式内社「多久比礼志神社」について、多久比禮はすなわち栲布(たくぬの)で作った領巾の意であるから、むしろ織布の神を祀る当社こそがふさわしい、という説がある。
式内社「多久比礼志神社」の論社は他に、市内塩の式内同名神社、黒瀬北町の日宮神社、五福の呉服神社がある。
ただし、五福には現在、呉服神社はない。五福に隣接する茶屋町の豊栄稲荷神社の境内末社に呉羽社があるが、関係は不明。
当社は戦国時代、上杉謙信から越中最古の社というとこから崇敬され、天文7年(1538年)には社領200石が寄進された。
江戸時代前期の寛文元年(1661年)、落雷のため、多くの社殿、社宝、記録などが焼失した。明治になり、再建、再興された。
御祭神は、天照皇大神、姉倉比賣命、大己貴命、武御名方主命。例祭は4月18日が春季例大祭、9月9日が秋季大祭。
拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
現在、本殿は3棟並んだ形式で、向かって右が神明宮で、天照皇大神を祀り、左が田中社で、大己貴命・武御名方主命を祀っている。
以前は、東に諏訪社、西に姉倉比賣神社、南に神明社、北に田中社と、境内の四方に社殿があったという。
【ご利益】
家内安全、商売繁盛、厄災除け、安産、交通安全など(公式HP)

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[電話]076-436-5459
姉倉比賣神社(あねくらひめじんじゃ)は、富山県富山市呉羽町にある神社。あいの風とやま鉄道の呉羽駅の南すぐ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』越中国婦負郡にある「姉倉比売神社」「多久比禮志神社/多久比礼志神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。姉倉姫神社とも。
御祭神は姉倉比賣命。『肯構泉達録』によれば、船倉山の神だった姉倉比賣命は、能登の伊須流伎比古と夫婦だったが、伊須流伎比古は、能登媛と契りを交わしてしまった。
怒った姉倉比賣は、一山の石を投げ尽くして、能登媛を攻撃した。大乱となったため、大己貴命が越路へ赴き、乱を鎮圧した。
責任を問われた姉倉比賣は大竹野(小竹)に流され、布を織って貢物とし、婦女に紡織を教え、罪を償うことになった。
姉倉比賣は娘たちに機織りを教え、村人たちには仕事に精を出すように励ましたので、誰からも慕われるようになったという。
ここは、いずこぞ大竹野よ 機を織りますわたくしは明るい歌声が村中にこだまし、姉倉比賣が機を織っていると蜆ヶ森の方から貝が蝶の姿になって飛んできて姉倉比賣の仕事を助けた、と伝わる。
心もともに トンカラリ トンカラリ
当社地はまさにこの小竹の地。姉倉比賣はその後許されて船倉山に帰った。その船倉の地にも当社と同名の神社があり、やはり式内論社になっている。
あるいは、第10代崇神天皇の御代、姉倉比賣は当地の賊を征伐・統治し、後に農耕と養蚕を地元民に広め、特に機織の神として崇敬されたともいう。
社伝によれば、第11代垂仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧に向かった。その際、御祭神の霊夢を受けた。
そこで、陣所の四方に祠を建て、天神地祇を祀り、戦勝を祈願したところ、勝利を収めたという。報恩により社殿などが整備された、と考えられる。
奈良時代の天平9年(737年)、仏像経典を納め、神仏混合が始まった。呉羽の宮とも、大竹大明神とも呼ばれるようになった。
式内社「多久比礼志神社」について、多久比禮はすなわち栲布(たくぬの)で作った領巾の意であるから、むしろ織布の神を祀る当社こそがふさわしい、という説がある。
式内社「多久比礼志神社」の論社は他に、市内塩の式内同名神社、黒瀬北町の日宮神社、五福の呉服神社がある。
ただし、五福には現在、呉服神社はない。五福に隣接する茶屋町の豊栄稲荷神社の境内末社に呉羽社があるが、関係は不明。
当社は戦国時代、上杉謙信から越中最古の社というとこから崇敬され、天文7年(1538年)には社領200石が寄進された。
江戸時代前期の寛文元年(1661年)、落雷のため、多くの社殿、社宝、記録などが焼失した。明治になり、再建、再興された。
御祭神は、天照皇大神、姉倉比賣命、大己貴命、武御名方主命。例祭は4月18日が春季例大祭、9月9日が秋季大祭。
拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
現在、本殿は3棟並んだ形式で、向かって右が神明宮で、天照皇大神を祀り、左が田中社で、大己貴命・武御名方主命を祀っている。
以前は、東に諏訪社、西に姉倉比賣神社、南に神明社、北に田中社と、境内の四方に社殿があったという。
【ご利益】
家内安全、商売繁盛、厄災除け、安産、交通安全など(公式HP)

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