平安前期からの参拝の記録、江戸期は加賀藩の庇護、旧地に復座
[住所]富山県高岡市石堤3587
[電話]-
浅井神社(あさいじんじゃ)は、富山県高岡市石堤にある神社。あいの風とやま鉄道の西高岡駅の北西約4.3キロ、小矢部川を渡る。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「淺井神社(越中国・砺波郡)」に比定される式内社(小論社)。近代社格では郷社。石堤浅井神社とも。
奈良時代初期の養老元年(717年)に勧請されたと伝えられる。五位庄53ヶ村の惣社として歴代領主に崇敬された。
平安時代前期の嘉祥元年(848年)に越中守の和氣豊永が参拝、仁寿3年(853年)には大春日雄継が社領を寄進したという。
式内社「浅井神社」は、天平宝字3年(759年)11月14日の越中国砺波郡石粟村官施入田地図に記載されている。
論社は他に、当社南西わずか600メートルの赤丸に同名神社があり、至近のため、往時の式内論争は激しかったとも伝わる。
南北朝時代には宗良親王をはじめ、家臣達が事業達成の祈願のために参拝したという。江戸時代に入ると、加賀藩の庇護を受けた。
江戸時代初期の元和年間(1615年-1624年)、大百姓長四郎が十一面観音、毘沙門天、八幡大菩薩の三像を合祀した際、論争があったという。
江戸時代前期の延宝6年(1678年)、加賀藩4代藩主前田綱紀が参拝し、雨乞いの祈願所とした。
いずれかの時期に、月野谷の見多気神社に借座していたが、江戸時代中期の明和元年(1764年)、現在地の旧社地に遷座した。
この復座に際しては、越中国砺波郡内島村の十村肝煎である五十嵐篤好が尽力し、加賀藩が許可したもの。
古くから神仏習合し、川人山鞍馬寺が祭祀を司り、三社権現などと称されたが、明治になり現社号に復した。
明治14年(1881年)、郷社に列し、その後、神饌幣帛料供進社に指定さた。御祭神は水波能女命。昭和になり、天照大御神・菊理媛命・少彦名命・天満天神を合祀した。
例祭は9月20日で秋季例大祭。現在は9月第3土曜日で、地元の青年団などにより、獅子舞などが奉納される。
【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、開運招福、地域安全、家内安全
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浅井神社(あさいじんじゃ)は、富山県高岡市石堤にある神社。あいの風とやま鉄道の西高岡駅の北西約4.3キロ、小矢部川を渡る。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「淺井神社(越中国・砺波郡)」に比定される式内社(小論社)。近代社格では郷社。石堤浅井神社とも。
奈良時代初期の養老元年(717年)に勧請されたと伝えられる。五位庄53ヶ村の惣社として歴代領主に崇敬された。
平安時代前期の嘉祥元年(848年)に越中守の和氣豊永が参拝、仁寿3年(853年)には大春日雄継が社領を寄進したという。
式内社「浅井神社」は、天平宝字3年(759年)11月14日の越中国砺波郡石粟村官施入田地図に記載されている。
論社は他に、当社南西わずか600メートルの赤丸に同名神社があり、至近のため、往時の式内論争は激しかったとも伝わる。
南北朝時代には宗良親王をはじめ、家臣達が事業達成の祈願のために参拝したという。江戸時代に入ると、加賀藩の庇護を受けた。
江戸時代初期の元和年間(1615年-1624年)、大百姓長四郎が十一面観音、毘沙門天、八幡大菩薩の三像を合祀した際、論争があったという。
江戸時代前期の延宝6年(1678年)、加賀藩4代藩主前田綱紀が参拝し、雨乞いの祈願所とした。
いずれかの時期に、月野谷の見多気神社に借座していたが、江戸時代中期の明和元年(1764年)、現在地の旧社地に遷座した。
この復座に際しては、越中国砺波郡内島村の十村肝煎である五十嵐篤好が尽力し、加賀藩が許可したもの。
古くから神仏習合し、川人山鞍馬寺が祭祀を司り、三社権現などと称されたが、明治になり現社号に復した。
明治14年(1881年)、郷社に列し、その後、神饌幣帛料供進社に指定さた。御祭神は水波能女命。昭和になり、天照大御神・菊理媛命・少彦名命・天満天神を合祀した。
例祭は9月20日で秋季例大祭。現在は9月第3土曜日で、地元の青年団などにより、獅子舞などが奉納される。
【ご利益】
五穀豊穣、身体壮健、開運招福、地域安全、家内安全
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