東大寺大仏建立に尽力、当地開拓の利波臣志瑠志が祖を奉斎
荊波神社 富山県南砺市岩木5024
[住所]富山県南砺市岩木5024
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荊波神社(うばらじんじゃ)は、富山県南砺市岩木にある神社。城端線の東石黒駅の北西約3キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「荊波神社(越中国・砺波郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

参道を進むと瓦葺の拝殿と幣殿がある。本殿は奥宮・奥の院とも呼ばれ、拝殿の後方約200メートルほどに鎮座する。

拝殿の右手から山道を登ると、木製の鳥居が建っており、切妻造の本殿がある。さらにその本殿の後方約50メートルに「利波臣志瑠志古墳」がある。

利波臣志瑠志は、当社の御祭神である日子刺肩別命を祖とする古代の当地の豪族。奈良東大寺の盧舎那仏建立に尽力したとされる。

この古墳はその前方後円墳と考えられていたが、最近の調査では経塚だったという。創祀年代は不詳だが、利波臣志瑠志が創建に関わったと考えられている。

式内社「荊波神社」は、奈良時代の天平宝宇3年(759年)に描かれた越中国礪波郡石栗村官施入田地図に「荊波神 一段 七十二歩」と記載されている。

また、越中守として越中国に赴任した大伴家持の和歌で、『万葉集』に収録されている「荊波の里に宿借り春雨に隠り障むと妹に告げつや」の舞台だった可能性がある。

江戸時代には、荊波神社冨士権現とも称され、山岳信仰の広がりにより、多くの修験道の山伏を擁して、利波の臣に連なる石黒郷の総社として崇敬された。

中鳥居野という地には昔、中鳥居があったと伝えられ、「荊波領」と刻まれた礎石も発掘されている。

また、小矢部川を隔てた桐木村田畠字荊波島は大鳥居の跡という。実際、古墳、本殿、拝殿から、これらの中鳥居、大鳥居は一直線上にあるという。

往時は極めて広大な社域を有していたことが分かる。配祀の底津海積命中津海積命表津海積命の綿津見神は小矢部川を鎮める神として祀られているという。

ただし、『富山県神社誌』などでは、底筒男命中筒男命表筒男命住吉三神と混同されて記載されている場合がある。

明治になり、現社号に復し、明治41年(1908年)、村内の八幡社(応神天皇)と境内社の諏訪神社(建御名方命)を合祀した。例祭は3月18日が春季例祭、8月30日が秋季例祭。

なお、式内社「荊波神社」の論社は他に、砺波市高岡市の当社および式内同名神社、南砺市桐木の神明宮、谷の大森神社とその後継の井波の八幡宮、小矢部市の臼谷の八幡宮、矢波の巖谷門神社がある。

【ご利益】
厄災除け、地域安全、一族・子孫繁栄
荊波神社 富山県南砺市岩木
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