大己貴命が開拓した地、日本武尊が勅許得て創立、獅子舞
[住所]富山県射水市古明神372
[電話]0766-86-2581
草岡神社(くさおかじんじゃ)は、富山県射水市古明神にある神社。富山新湊(富山新港)に突き出た、新湊大橋の東。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「草岡神社(越中国・射水郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。幟旗などには艸岡神社などとある。
この周囲は、古代には富山湾と干潟に挟まれた場所で、湿地であったと考えられているが、一説には、弥生時代の水位はもっと低く、現在よりも広い平野だった、という。
神代の昔、越の国有磯が浦の東南数里は、悪蛇毒虫の巣窟だったという。後にこの浜地を明神浜と称し、野鳥禽獣などの棲息する未開の荒涼としたところだった。
大己貴命(大国主命)は、当地が耕耘に適し、地味良好であるとして、平国予という宝剣で、繁茂する千樹万障を鍬の御矛をもって伐採し、開墾した、という。
この恩恵を受け、この縁故から、当地は草岡の里と呼ばれるようになり、人々は当地に集まり、農業・漁業に精進するようになったという。
第12代景行天皇40年秋7月、大和武尊が東夷の邪神姦鬼、蝦夷などを討伐の際、吉備武彦を遣わして越の国を征伐した。
その際、「草岡の里は海辺で地勢平坦なるが故に、この地に守護社を建設したきもの」と天皇に奏上し、勅許を賜って創立したのが当社。
鎌倉時代から室町時代にかけて、下村加茂神社を中心とする倉垣庄が庄域をひろげ、当地に加茂社(玉依姫命)が勧請された。
江戸時代になると、加茂社とも、現社名でも呼ばれた。江戸時代前期の承応2年(1653年)には、現在地南方の字若宮に鎮座していたという。
その後、村の北西部に遷座し、江戸時代中期の享保8年(1723年)には村寄りで浜往来の南側、字浜田に遷座した。
ただ、その地が村の東端であり、村人の参拝に不便だったため、江戸時代後期の天保11年(1840年)、現在地に移った。
明治6年(1873年)、郷社に列した。大正12年(1923年)、境外末社の恵比須社(事代主命)を合祀した。
現在の社殿は、昭和15年(1940年)正月の大雪で倒壊した後に9月3日に再建され神明造。その後、昭和48年(1973年)、平成6年(1994年)に大改修が行われた。
御祭神は、大己貴命。玉依姫命・事代主命を合祀している。『神名帳考證』では、社名から日下部氏の祖神であるとして、御祭神は彦坐命としている。
例祭は5月4日で春季例大祭。江戸時代前期の明暦年間(1655年-1658年)までは、大漁を祈願し、明神沖で神楽を奉し、御輿の御渡が行われていたという。
また、張子の大鼠が本殿を三進する神楽式、熱湯を笹葉で参詣人に振りかける深湯瓮神式、打手の小槌を持って舞を奉納する御田植神事などもあった。
獅子舞が伝わる。春季例大祭と、11月3日の秋季例大祭で奉納される。近隣にいくつかの獅子舞が行われているため、特に「草岡神社獅子舞」と呼ばれている。
獅子頭は黒塗りの大振りなもので、形式はキリコや天狗が登場する射水系の獅子舞。前掛けなどには当社の神紋である「丸に違い槌」が描かれている。
なお、式内社「草岡神社」の論社は他に、市内戸破の加茂社、氷見市一勿の高階社と八幡宮がある。
【ご利益】
病気平癒、安産、商売繁盛

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・富山県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、富山県に鎮座している神社の一覧
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草岡神社(くさおかじんじゃ)は、富山県射水市古明神にある神社。富山新湊(富山新港)に突き出た、新湊大橋の東。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「草岡神社(越中国・射水郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。幟旗などには艸岡神社などとある。
この周囲は、古代には富山湾と干潟に挟まれた場所で、湿地であったと考えられているが、一説には、弥生時代の水位はもっと低く、現在よりも広い平野だった、という。
神代の昔、越の国有磯が浦の東南数里は、悪蛇毒虫の巣窟だったという。後にこの浜地を明神浜と称し、野鳥禽獣などの棲息する未開の荒涼としたところだった。
大己貴命(大国主命)は、当地が耕耘に適し、地味良好であるとして、平国予という宝剣で、繁茂する千樹万障を鍬の御矛をもって伐採し、開墾した、という。
この恩恵を受け、この縁故から、当地は草岡の里と呼ばれるようになり、人々は当地に集まり、農業・漁業に精進するようになったという。
第12代景行天皇40年秋7月、大和武尊が東夷の邪神姦鬼、蝦夷などを討伐の際、吉備武彦を遣わして越の国を征伐した。
その際、「草岡の里は海辺で地勢平坦なるが故に、この地に守護社を建設したきもの」と天皇に奏上し、勅許を賜って創立したのが当社。
鎌倉時代から室町時代にかけて、下村加茂神社を中心とする倉垣庄が庄域をひろげ、当地に加茂社(玉依姫命)が勧請された。
江戸時代になると、加茂社とも、現社名でも呼ばれた。江戸時代前期の承応2年(1653年)には、現在地南方の字若宮に鎮座していたという。
その後、村の北西部に遷座し、江戸時代中期の享保8年(1723年)には村寄りで浜往来の南側、字浜田に遷座した。
ただ、その地が村の東端であり、村人の参拝に不便だったため、江戸時代後期の天保11年(1840年)、現在地に移った。
明治6年(1873年)、郷社に列した。大正12年(1923年)、境外末社の恵比須社(事代主命)を合祀した。
現在の社殿は、昭和15年(1940年)正月の大雪で倒壊した後に9月3日に再建され神明造。その後、昭和48年(1973年)、平成6年(1994年)に大改修が行われた。
御祭神は、大己貴命。玉依姫命・事代主命を合祀している。『神名帳考證』では、社名から日下部氏の祖神であるとして、御祭神は彦坐命としている。
例祭は5月4日で春季例大祭。江戸時代前期の明暦年間(1655年-1658年)までは、大漁を祈願し、明神沖で神楽を奉し、御輿の御渡が行われていたという。
また、張子の大鼠が本殿を三進する神楽式、熱湯を笹葉で参詣人に振りかける深湯瓮神式、打手の小槌を持って舞を奉納する御田植神事などもあった。
獅子舞が伝わる。春季例大祭と、11月3日の秋季例大祭で奉納される。近隣にいくつかの獅子舞が行われているため、特に「草岡神社獅子舞」と呼ばれている。
獅子頭は黒塗りの大振りなもので、形式はキリコや天狗が登場する射水系の獅子舞。前掛けなどには当社の神紋である「丸に違い槌」が描かれている。
なお、式内社「草岡神社」の論社は他に、市内戸破の加茂社、氷見市一勿の高階社と八幡宮がある。
【ご利益】
病気平癒、安産、商売繁盛

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