岩西様と崇敬され続けた当地開発の日子坐王陵とともに草創の古社
[住所]岐阜県岐阜市岩田西3-421
[電話]-
伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)は、岐阜県岐阜市岩田西にある神社。長良川東岸、高山本線の岐阜駅の北東約10キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「伊波乃西神社(美濃国・各務郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。清水山の山麓、檜の巨木数百本からなる美しい林に覆われて鎮座する。御祭神は日子坐王。
第9代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の御祭神である丹波道主命の父。『古事記』の第10代崇神天皇の御代に、「日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠」とある。
つまり、丹波国の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を勅命により討伐、これを殺した。これは史上に現れた初めての勲功とされる。
玖賀耳之御笠の詳細は不明。『丹波風土記』の「陸耳御笠」と同一視される。ともかく、日子坐王は勅命により、美濃国各務郡岩田に下り、当地開発を進めたという。
治山治水に着手し、農耕の業を進め、殖産興業に尽くしたという。配祀されている八瓜入日子王は、日子坐王の子で、神大根王の別名。
神大根王も父の後を継ぎ、当地の開発に功が多かったと伝わる。日子坐王薨去の後、陵を清水山の中腹に築いた。
当社の草創はおそらく、この日子坐王の陵の誕生に関わる。現在地の西北100メートルに現在も古墳跡がある。
封土は流失し、高さ2.4メートル、幅1.8メートルの巨岩が露出している。岩西様と呼ばれ崇敬された。当社はもとはこの地に鎮座していた。
平安時代の康和5年(1103年)6月、神祇官の遣使があった。当社も岩西神・八幡宮などと呼ばれたが、明治になってか、現社号に復した。
明治8年(1875年)、岩西様が宮内省より正式に陵として認められ、当社は現在地に遷座した。昭和61年(1986)、銀幣社に昇格した。
当社の例祭は4月5日。御陵墓祭が3月21日にある。ただし、滋賀県木之本町の信者は例祭翌日の10月11日に御陵参拝を行事としているとされる。
【ご利益】
地域安全、一族・子孫繁栄、平穏安寧

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伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)は、岐阜県岐阜市岩田西にある神社。長良川東岸、高山本線の岐阜駅の北東約10キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「伊波乃西神社(美濃国・各務郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。清水山の山麓、檜の巨木数百本からなる美しい林に覆われて鎮座する。御祭神は日子坐王。
第9代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の御祭神である丹波道主命の父。『古事記』の第10代崇神天皇の御代に、「日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠」とある。
つまり、丹波国の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を勅命により討伐、これを殺した。これは史上に現れた初めての勲功とされる。
玖賀耳之御笠の詳細は不明。『丹波風土記』の「陸耳御笠」と同一視される。ともかく、日子坐王は勅命により、美濃国各務郡岩田に下り、当地開発を進めたという。
治山治水に着手し、農耕の業を進め、殖産興業に尽くしたという。配祀されている八瓜入日子王は、日子坐王の子で、神大根王の別名。
神大根王も父の後を継ぎ、当地の開発に功が多かったと伝わる。日子坐王薨去の後、陵を清水山の中腹に築いた。
当社の草創はおそらく、この日子坐王の陵の誕生に関わる。現在地の西北100メートルに現在も古墳跡がある。
封土は流失し、高さ2.4メートル、幅1.8メートルの巨岩が露出している。岩西様と呼ばれ崇敬された。当社はもとはこの地に鎮座していた。
平安時代の康和5年(1103年)6月、神祇官の遣使があった。当社も岩西神・八幡宮などと呼ばれたが、明治になってか、現社号に復した。
明治8年(1875年)、岩西様が宮内省より正式に陵として認められ、当社は現在地に遷座した。昭和61年(1986)、銀幣社に昇格した。
当社の例祭は4月5日。御陵墓祭が3月21日にある。ただし、滋賀県木之本町の信者は例祭翌日の10月11日に御陵参拝を行事としているとされる。
【ご利益】
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