推古朝で行われた薬猟りの地、波多氏ゆかり、近世には天照大神社
[住所]奈良県高市郡高取町羽内
[電話]-
波多甕井神社(はたみかいじんじゃ、波多𤭖井神社)は、奈良県高市郡高取町羽内にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「波多𤭖井神社/波多甕井神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。羽内集落南方、奥羽内への途中の道ばたの小丘の林の中に鎮座し、下方の小字井戸谷に大師井戸と呼ばれる、老杉に囲まれた清水があり、社名の甕井の由来か。
『日本書記』第33代推古天皇20年(612年)の条に、「夏5月の5日に、薬猟す。羽田に集ひて、相連りて朝に参趣く」とある。
つまり、当社近辺で壮大で華麗な宮廷行事として、鹿の若角をとったり、藁草の採取などが行われた。
当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い、服の色はそれぞれの冠の色と同しで、冠にかんざしを挿して正装して参加した。
ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿していた。大仁は、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していた。
行事が終わり、諸臣は羽内に集まって一緒になり、朝廷に参上した。いわゆる「薬猟り(くすりがり)」として知られる。
『新抄格勅符抄』では、奈良時代の神護景雲4年(770年)、大和に紳封1戸を充てられた。『日本三代実録』天安3年(859年)1月27日、従五位下から従五位上に昇叙された。
社名から、波多氏ゆかりと考えられるが、詳細は不明。その住地である波多郷は檜前郷の南方で、現高取町と考えられ、当社も波多氏が鎮守としたとされる。
御祭神は、明治の「明細帳」その他に甕速日命としているが、『大和志』や棟札などには天照大神とあり、『高市郡神社誌』によれば、近世は天照大神社と称した。
例祭は10月9日。『高市郡神社誌』によれば、例祭の2日前、宮座の当屋は吉野川に身を清めて小石を持ち帰って輪状の注連に一個を釣り下げた。
それを甕井の杉の木に懸け、小石を井戸に浸したという。また、御供の糯米をこの井戸で洗ったという。
【ご利益】
五穀豊穣、地域安全、開運招福

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・奈良県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、奈良県に鎮座している神社の一覧
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波多甕井神社(はたみかいじんじゃ、波多𤭖井神社)は、奈良県高市郡高取町羽内にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「波多𤭖井神社/波多甕井神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。羽内集落南方、奥羽内への途中の道ばたの小丘の林の中に鎮座し、下方の小字井戸谷に大師井戸と呼ばれる、老杉に囲まれた清水があり、社名の甕井の由来か。
『日本書記』第33代推古天皇20年(612年)の条に、「夏5月の5日に、薬猟す。羽田に集ひて、相連りて朝に参趣く」とある。
つまり、当社近辺で壮大で華麗な宮廷行事として、鹿の若角をとったり、藁草の採取などが行われた。
当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い、服の色はそれぞれの冠の色と同しで、冠にかんざしを挿して正装して参加した。
ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿していた。大仁は、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していた。
行事が終わり、諸臣は羽内に集まって一緒になり、朝廷に参上した。いわゆる「薬猟り(くすりがり)」として知られる。
『新抄格勅符抄』では、奈良時代の神護景雲4年(770年)、大和に紳封1戸を充てられた。『日本三代実録』天安3年(859年)1月27日、従五位下から従五位上に昇叙された。
社名から、波多氏ゆかりと考えられるが、詳細は不明。その住地である波多郷は檜前郷の南方で、現高取町と考えられ、当社も波多氏が鎮守としたとされる。
御祭神は、明治の「明細帳」その他に甕速日命としているが、『大和志』や棟札などには天照大神とあり、『高市郡神社誌』によれば、近世は天照大神社と称した。
例祭は10月9日。『高市郡神社誌』によれば、例祭の2日前、宮座の当屋は吉野川に身を清めて小石を持ち帰って輪状の注連に一個を釣り下げた。
それを甕井の杉の木に懸け、小石を井戸に浸したという。また、御供の糯米をこの井戸で洗ったという。
【ご利益】
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