孝元朝の鎮座、明尊僧正の奉斎、奥の院は旧称の石塔寺権現
[住所]島根県益田市横田町2873
[電話]0856-25-1777

豊田神社(とよたじんじゃ/とよだじんじゃ)は、島根県益田市横田町にある神社。山口線の石見横田駅の北東約1.5キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「菅野天財若子命神社(石見国・美濃郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

第8代孝元天皇の御代、鎮座したと伝わる。御祭神は天津大神多祁阿久豆魂命(あまつおおかみたけあくずたまのみこと)。神皇産霊尊の御子とされる。

神名は天津大神、多祁阿久豆魂命と二分されることがあるが、1柱だろう。当社にしか祀られていない神だと考えられ、式内社名の独特な神名との兼ね合いも考えられる。

式内社「菅野天財若子命神社」の論社は他に、市内戸田町の小野神社が合祀した菅原神社、匹見町石谷の若宮神社がある。

皇紀1695年、つまり平安時代の長元8年(1035年)、当社神の神威旺盛で、荒ぶる神となったので、三井寺の座主である明尊僧正が当地に下向した。

『今昔物語集』などでも名高い明尊僧正は、当地において、九つの壺に酒を入れ、祭器とともに地中に封じ、奉斎したと伝わる。

皇紀1919年、つまり鎌倉時代中期の正嘉3年/正元元年(1259年)、時の領主だった豊田致親は神宮寺を建て、育王山石塔寺大権現と尊号した。

皇紀2366年、つまり江戸時代中期の宝永3年(1706年)、一般的に太平の世ではあるが、当地では世の中が乱れ、国民は苦しんだという。

そこで、時の神主である山野権太夫晴栄は、霊夢に「世に出て氏子の守りとなるべし」とのお告げ王家、時の領主である亀井茲親に言上した。

領主の命を受け、晴栄は、御神体と九つの壺を掘り出し、これを奉斎したという。明治3年(1870年)、現社号に改称した。

明治7年(1874年)、郷社に列した。明治44年(1911年)、もと鎮座した御山から現在地に遷座した。

当社の旧地だろうか、現在も当社の奥の院として、当社旧称の石塔寺権現が祀られている。横田町から梅月町に抜ける峠の途中に「奥之院参道」の石柱がある。

その先に鳥居もあるが、現在、この参道は通行が困難なため、向かう場合はその側に作られた、未舗装で狭い車道を使うことになる。

奥の院の手前150メートルくらいのところに、庭園跡がある。いわゆる「心」の字をかたどった池、心字池のある、「石塔寺権現の庭園」である。

奥の院には現在、石垣と階段があり、下の段には、大きな礎石の跡が複数見られ、往時は立派な拝殿が建っていたと推測される。

上の段の中央に祠があり、複数の石灯籠や記念碑が建てられている。石垣や祠の基礎、礎石に使われている石は大きく、山中まで引き上げた昔の偉業を感じられる。

この石塔寺権現から「陶製経筒五口」が出土した。現在は県指定文化財。当社および当地の山岳信仰を示す重要な歴史的資料である。

大正元年(1912年)、大境の剣玉神社、上野の天満宮を合祀した。昭和50年(1975年)、特別神社に指定された。

主祭神は天津大神多祁阿久豆魂命であるが、現在までに他に24柱を祀る。例祭は11月23日で、当地方では最も遅い秋祭り。

神輿行列があり、その途中、下市町内の松本家前の御旅所で神事が行われる。子供神輿も出る。巫女舞が奉納される場合があるという。

【ご利益】
地域安全、家内安全、厄災除け
豊田神社 島根県益田市横田町
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