平安期に創祀、もとは神谷山の神谷・神田明神、各種伝承
[住所]島根県大田市久手町波根西1942-2
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苅田神社(かりたじんじゃ)は、島根県大田市久手町波根西にある神社。山陰本線の久手駅の北約600メートル。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「苅田神社(石見国・安濃郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

波根一帯は、かつては日本海に面した海跡湖である波根湖だった所で、しばしば氾濫していたが、昭和になって干拓工事が開始され、現在は農地となっている。

社伝によると、第59代宇多天皇の御代、平安時代の寛平7年(895年)の創祀。苅田首の祖神を祀る。

延喜5年(905年)編纂開始、延長5年(927年)完成の『延喜式』に収録されるにはぎりぎりの創祀年代となるか。

かつては現在地の南2キロほどの地に鎮座した。神谷山にあり、神谷明神とも、神田明神とも呼ばれた。

神谷山には、烏帽子岩と呼ばれる直立の大岩があり、その岩が鎮座の地だったという。当社に関する伝承がいくつかある。

波根湖の東に大津という部落があり、大津屋という豪族がいた。いつの時代か、この家は断絶したが、当社の旧祭日の夜、その大津上空に怪火が出現し、神谷山へ往来した。

これは大津屋の怨霊が当社明神へ詫びに参ると伝わる。また、当社御神体の木像は、「菅丞相の一刀刻み」、つまり菅原道真により彫刻されたと伝わる。

当地方には「神盗み」という習俗があり、盗んできた神の霊験が高いという。当社も、稲用の里と、しばしば神璽争奪が行われたという。

神谷明神は雷よりも恐ろしいといわれ、波根浦立神岩の下を、穢れた者が乗る船が通ると、たちまちに転覆すると伝わる。

万寿3年(1026年)、大水害で社殿が流失、その後、神谷山の麓に遷座したという。安土桃山時代の天正18年(1590年)に造営の記録が残る。

明治5年(1872年)12月、村社に列し、明治42年(1909年)10月15日、神饌幣帛料供進社に指定された。

当社の主祭神は、苅田比古神(苅田彦命)・苅田比咩神(苅田姫命)・倉稲魂神。例祭は4月15日。昭和3年(1928年)、大元神社(国常立神)のあった現在地に遷座した。

現在地は、江戸時代中期の宝暦年間(1751年-1763年)から修験僧が住みつき、行者山と呼ばれた。大元神社は当社の遷座とともに、当社に合祀された。

平成30年(2018年)4月、震度5強の地震が発生、当社の鳥居が倒壊し、当社周辺の住宅などでも被害が出た。

境内末社に、地元出身の戦没英霊191柱を祀る祖霊社、大神山神社(字気母智命大穴侍命大年命猿田彦命久那戸命)がある。

また、大物主命少名彦那命八意思兼命を始め木・火・金・水の五行の祖神を祀る幸神社、「いも代官」井戸平左衛門を祀る井戸神社がある。

なお、式内社「苅田神社」の論社は他に、市内大田町大田の南八幡宮が合祀した諏訪神社がある。

【ご利益】
地域安全、家族安全、夫婦和合、五穀豊穣
苅田神社 島根県大田市久手町波根西
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