大比古命の味酒伝承、2月に平安期以来の神事、川俣社の祖か
[住所]三重県亀山市加太板屋5470
[電話]-
川俣神社(かわまたじんじゃ)は、三重県亀山市加太板屋にある神社。関西本線の加太駅の西約2.6キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「川俣神社(伊勢国・鈴鹿郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
口碑によれば、第11代垂仁天皇の御代、天照大御神を伊勢に遷座の途次、鈴鹿郡小山宮において、川俣県造の祖である大比古命が味酒を奉った。
この伝承にちなみ、今でも12月3日には味酒を朝日に献じる風習が残っている。古くから川県神社といわれ、県川と富人川と呼ばれる加太川の川俣神を祀った、とも。
式内社「川俣神社」の論社は多く、他にすべて鈴鹿市で、庄野町、西富田町、中冨田町、平田本町、和泉町に当社および式内同名神社がある。
古書によれば、当社が鈴鹿川の最上流に位置することから、他の川俣神社の祖となっているとという。
鈴鹿川の水源として川の集まるこの地が、川俣の社名の意に適っており、さらに加太(かぶと)の地名は川俣が転訛したものとも考えられている。
社伝によれば、当社はもと中在家にあったが、度重なる洪水によって、江戸時代前期の寛文8年(1668年)、現在地に遷座した。
中在家の旧社地には現在、「川俣神社古跡」の石標が立っているという。ただ、当地は水田可耕地に恵まれず、また古墳などの遺跡もほとんど未検出。
古代に鈴鹿郡で有力な川俣氏族が領した地としては、山間僻地に片寄っている、との指摘もある。
現在地は川俣城跡地とされる。川俣城は、南北朝時代に当地を領していた鹿伏兎(かぶと)氏が築いた御霊ヶ丘(ごりょうがおか)陣屋が起源。
室町時代の応永21年(1414年)、伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が川俣城と命名した。現在も社殿裏にわずかに土塁が残っている。
遷座後10年の延宝6年(1678年)、石造の鳥居を建立した。その石材は中在家で造り、2月2日に柱部を北在家と板屋で、笠部は中在家で運搬した。
2月13日に完成した際、谷中はこぞって祝い酒に餅まきで賑わったと伝わる。費用は総額10両、石工は現在の井田川に相当する和泉村の長左エ門だったという。
伊勢、伊賀、近江の三国が草刈場の優先権を三人相撲で決めたといわれ「加太の三人相撲」として有名だったともされる。
江戸時代中期の享保11年(1726年)11月に起こった板屋の大火で、当社記・伝記などはすべて焼失。創立以来の由緒などは不明となった。
明治4年(1871年)、村社に列した。主祭神は大比古命。神武天皇・仁徳天皇・品陀和気命・豊受姫命・大日孁貴尊を配祀する。
現在の氏子地域は加太全域。例祭は7月第1日曜日。先述の12月3日の味酒祭の他、2月1日には「二正月」と称し、厄年の老若男女が近在から参集して祈願する。
現在、この「二正月」は2月第1日曜日に行われているようで、厄除祈願・長寿祝祭とも呼ばれている。平安時代以来の伝統とも。
厄、還暦、古希、喜寿や米寿の人たち約100人が参列し、昆布、ミカン、スルメ、コメを神前に供え、1年の無病息災を祈願する。
小学生女子が緋色袴のみこ装束で、サカキを手に「豊栄の舞」を奉納する。なお、当社叢全体は市の天然記念物に指定されている。
大杉(大スギ)、サカキ、イヌガシなどからなり、御神木の大スギは幹周6.12メートル、樹高40メートル、樹齢1000年と伝わる。
幹周1.54メートル、樹高18.5メートルのサカキは全国最大級ともされる。また、幹周1.63メートル、樹高19メートルのイヌガシは県下最大級。
これらの樹木で見事な社叢を形成しているが、拝殿の前にはシダレザクラがあり、春の主役はこちらになりそう。
【ご利益】
厄災除け、地域安全、五穀豊穣
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・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
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川俣神社(かわまたじんじゃ)は、三重県亀山市加太板屋にある神社。関西本線の加太駅の西約2.6キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「川俣神社(伊勢国・鈴鹿郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
口碑によれば、第11代垂仁天皇の御代、天照大御神を伊勢に遷座の途次、鈴鹿郡小山宮において、川俣県造の祖である大比古命が味酒を奉った。
この伝承にちなみ、今でも12月3日には味酒を朝日に献じる風習が残っている。古くから川県神社といわれ、県川と富人川と呼ばれる加太川の川俣神を祀った、とも。
式内社「川俣神社」の論社は多く、他にすべて鈴鹿市で、庄野町、西富田町、中冨田町、平田本町、和泉町に当社および式内同名神社がある。
古書によれば、当社が鈴鹿川の最上流に位置することから、他の川俣神社の祖となっているとという。
鈴鹿川の水源として川の集まるこの地が、川俣の社名の意に適っており、さらに加太(かぶと)の地名は川俣が転訛したものとも考えられている。
社伝によれば、当社はもと中在家にあったが、度重なる洪水によって、江戸時代前期の寛文8年(1668年)、現在地に遷座した。
中在家の旧社地には現在、「川俣神社古跡」の石標が立っているという。ただ、当地は水田可耕地に恵まれず、また古墳などの遺跡もほとんど未検出。
古代に鈴鹿郡で有力な川俣氏族が領した地としては、山間僻地に片寄っている、との指摘もある。
現在地は川俣城跡地とされる。川俣城は、南北朝時代に当地を領していた鹿伏兎(かぶと)氏が築いた御霊ヶ丘(ごりょうがおか)陣屋が起源。
室町時代の応永21年(1414年)、伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が川俣城と命名した。現在も社殿裏にわずかに土塁が残っている。
遷座後10年の延宝6年(1678年)、石造の鳥居を建立した。その石材は中在家で造り、2月2日に柱部を北在家と板屋で、笠部は中在家で運搬した。
2月13日に完成した際、谷中はこぞって祝い酒に餅まきで賑わったと伝わる。費用は総額10両、石工は現在の井田川に相当する和泉村の長左エ門だったという。
伊勢、伊賀、近江の三国が草刈場の優先権を三人相撲で決めたといわれ「加太の三人相撲」として有名だったともされる。
江戸時代中期の享保11年(1726年)11月に起こった板屋の大火で、当社記・伝記などはすべて焼失。創立以来の由緒などは不明となった。
明治4年(1871年)、村社に列した。主祭神は大比古命。神武天皇・仁徳天皇・品陀和気命・豊受姫命・大日孁貴尊を配祀する。
現在の氏子地域は加太全域。例祭は7月第1日曜日。先述の12月3日の味酒祭の他、2月1日には「二正月」と称し、厄年の老若男女が近在から参集して祈願する。
現在、この「二正月」は2月第1日曜日に行われているようで、厄除祈願・長寿祝祭とも呼ばれている。平安時代以来の伝統とも。
厄、還暦、古希、喜寿や米寿の人たち約100人が参列し、昆布、ミカン、スルメ、コメを神前に供え、1年の無病息災を祈願する。
小学生女子が緋色袴のみこ装束で、サカキを手に「豊栄の舞」を奉納する。なお、当社叢全体は市の天然記念物に指定されている。
大杉(大スギ)、サカキ、イヌガシなどからなり、御神木の大スギは幹周6.12メートル、樹高40メートル、樹齢1000年と伝わる。
幹周1.54メートル、樹高18.5メートルのサカキは全国最大級ともされる。また、幹周1.63メートル、樹高19メートルのイヌガシは県下最大級。
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