倭姫命の巡幸の地、天武天皇が伊勢を遥拝、2月伝統の日待祭
[住所]三重県四日市市羽津戊523
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伊賀留我神社(いかるがじんじゃ)は、三重県四日市市羽津戊にある神社。近鉄名古屋線の霞ヶ浦駅の北約2キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「伊賀留我神社(伊勢国・朝明郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。南伊賀留我神社(みなみいかるがじんじゃ)とも。

第11代垂仁天皇18年、皇女である倭姫命天照大神の大宮処を求め、桑名野代宮より鈴鹿忍山宮へ遷幸の途次、当地に駐輿した。

当社はその跡であり、天津彦根命の孫、意富伊我都命の遠孫である額田部の子孫が、天照大御神荒魂を奉斎したと伝える。

また、大友皇子との間に起った、壬申の乱(672年)の時、大海人皇子(後の第40代天武天皇)は、朝明郡迹太川より伊勢の神宮(伊勢神宮)を遥拝、戦勝祈願した。

この故事により、それから230年後、天武天皇の事跡を偲んで額突山の麓に天武天皇社が創建され、山頂には「天武天皇神宮御遥拝所」と刻まれた石碑が残っている。

『神鳳鈔』には「鵤ノ御厨三丁」とあり、伊勢の神宮と関わりが深かったことが知られている。

平安時代の天延2年(974年)、叡山の僧良源が船木氏の良見に招かれて下向、鵤村に安居した後 帰山するが、弟覚鎮が当地に斑鳩山大善寺を創建し、別当となったと伝える。

安土桃山時代、五世空源の代に、織田信長の兵災に罹り、迦藍、神社の古文書などをことごとく焼失。江戸時代前期の寛永年間(1624年-1645年)、分村。

そのため、当社が南に対して、北の市内茂福甲に当社と同名の神社があり、両者の距離はわずか250メートルほど。当社と同様、式内論社。齋宮大明神として崇敬された。

明治6年(1873年)3月、村社に列し、明治35年(1902年)2月13日には郷社に昇格した。明治末期、無格社天武天皇社(天武天皇)など5社を合祀した。

御祭神は、天照大御神荒魂。大年神大山祇神・天武天皇・不詳一座を合祀する。異説として、意富伊我都命・倉稲魂・大日霊貴などの説がある。

氏子地域は、通称として羽津鵤町とも呼ばれる羽津戊と、南いかるが。例祭は10月16日。毎年2月、祈年祭の前夜から早朝に渡って、日待祭が執り行われている。

当社の日待祭の歴史は古く、地元の古老の言い伝えでは、江戸時代中期の天明4年(1784年)には行われていたことが確実だという。

古くは女人禁制で、直会の準備からすべてを宮守青年団によって行い、まず日待の宿を2月10日の夜に決める。

それは、団長宅で、三方にのった氏子各戸の名前が書かれた名札を、御神酒を浸したお札で撫で、お札に張り付いた家を日待の宿とする神占神事である。

昔は、神から選ばれたと、名誉だったとされる。当日夕方、宿を務める家の床の間に、古くより伝わる神殿が飾られ、天照大神のお札を奉斎する。

直会の後は、眠ることなく神殿を守護し、親睦を深め、同じ地域に住む仲間意識を確かめ合いながら忌籠ったという。

午前3時頃、全員が宿の風呂に入って身を清め、午前5時、神殿を庭先に移し、日の出を待って順次拝礼。その後、神殿を交代で担ぎ、伊勢音頭を唄いながら当社に向かう。

昭和53年(1978年)からは、自治会役員、氏子総代、組長などによって行われるようになり、宿も町の公民館に固定されて、現在に至っている。

【ご利益】
開運招福、五穀豊穣、地域安全、家内安全
伊賀留我神社 三重県四日市市羽津戊
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