伊勢内宮神領「舟底田御薗」、式内・志婆加支神社とも
[住所]三重県津市芸濃町楠原303
[電話]-
明神社(あきらじんじゃ)は、三重県津市芸濃町楠原にある神社。関西本線の関駅の南東約3キロ。伊勢別街道の近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』伊勢国鈴鹿郡の「志婆加支神社」、奄芸郡の「比佐豆知神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。もとは現在地の西南西500メートルの御手洗(みたらし)の字名が残る愛宕山西の小高い丘に鎮座したという。
岩坂に出る道が参道だったようで、御手洗という小字名は、参道途中の手水舎の古跡を指すという。無里(無郷)が由来とも。
現在の「底田」は古く舟底田御薗と言い、『神鳳抄』によれば、上古、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の神領で、毎年籾6斗を内宮の倉庫へ上納していた。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1591年)、社頭が著しく荒廃したため、現在地に遷座したという。「紫垣社」「天神社」と呼ばれていた。
明治40年(1907年)には林地区を除く、旧明村各地に村社、無格社が38社を数えた。明治41年(1908年)、各地区1社計6社に合併した。
さらに明治45年(1912年)1月4日、現在地にすべての社を合祀して現社号を称した。主祭神は伊邪奈伎命・伊邪那美命。
饒速日命・市杵島比売命・迦具土命・倉稲魂命・木花佐久夜比売命・金山彦命・品陀別命・大山祇命を配祀する。
大己貴命・建速須佐之男命・五男三女神・天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野久須毘命・多紀理比売命・多伎津比売命・菅原道真・国之狭槌命・八衢比古神・八衢比売命・久那戸神・恵那津彦命を合祀する。
なお、式内社「志婆加支神社」の論社は他に、いずれも亀岡市の亀山神社と能褒野神社にそれぞれ合祀されたものがある。
奄芸郡の「比佐豆知神社」の論社、というよりも、こちらについて、当社あまり有力ではなく、通常は鈴鹿市寺家町の比佐豆知神社に比定される。
【ご利益】
夫婦和合、家内安全、地域安全

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明神社(あきらじんじゃ)は、三重県津市芸濃町楠原にある神社。関西本線の関駅の南東約3キロ。伊勢別街道の近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』伊勢国鈴鹿郡の「志婆加支神社」、奄芸郡の「比佐豆知神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。もとは現在地の西南西500メートルの御手洗(みたらし)の字名が残る愛宕山西の小高い丘に鎮座したという。
岩坂に出る道が参道だったようで、御手洗という小字名は、参道途中の手水舎の古跡を指すという。無里(無郷)が由来とも。
現在の「底田」は古く舟底田御薗と言い、『神鳳抄』によれば、上古、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の神領で、毎年籾6斗を内宮の倉庫へ上納していた。
安土桃山時代の天正年間(1573年-1591年)、社頭が著しく荒廃したため、現在地に遷座したという。「紫垣社」「天神社」と呼ばれていた。
明治40年(1907年)には林地区を除く、旧明村各地に村社、無格社が38社を数えた。明治41年(1908年)、各地区1社計6社に合併した。
さらに明治45年(1912年)1月4日、現在地にすべての社を合祀して現社号を称した。主祭神は伊邪奈伎命・伊邪那美命。
饒速日命・市杵島比売命・迦具土命・倉稲魂命・木花佐久夜比売命・金山彦命・品陀別命・大山祇命を配祀する。
大己貴命・建速須佐之男命・五男三女神・天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野久須毘命・多紀理比売命・多伎津比売命・菅原道真・国之狭槌命・八衢比古神・八衢比売命・久那戸神・恵那津彦命を合祀する。
なお、式内社「志婆加支神社」の論社は他に、いずれも亀岡市の亀山神社と能褒野神社にそれぞれ合祀されたものがある。
奄芸郡の「比佐豆知神社」の論社、というよりも、こちらについて、当社あまり有力ではなく、通常は鈴鹿市寺家町の比佐豆知神社に比定される。
【ご利益】
夫婦和合、家内安全、地域安全

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