神宮とのかかわり、7月に水まつり「諏訪おどり」、5月に新茶まつり
[住所]三重県四日市市水沢町708
[電話]059-329-2170
足見田神社(あしみだじんじゃ)は、三重県四日市市水沢町にある神社。近鉄湯の山線の桜駅の西約8.5キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』伊勢国三重郡にある「足見田神社」「弥牟居神社/彌牟居神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
当社旧記によれば、第11代垂仁天皇26年の鎮座と伝える。また、大正期(1912年-1926年)の「神社明細帳」には第21代雄略天皇21年の鎮座とも記す。
垂仁天皇26年は皇大神宮(内宮)の、雄略天皇21年は豊受大神宮(外宮)の鎮座年代で、もとより、伊勢の神宮(伊勢神宮)との深いかかわりが指摘されている。
『神鳳鈔』に「足見田社 神田三反」とある。また、もとは当社西方にある標高1161メートルの鎌ヶ岳(釜ヶ岳)を神聖視していたとも考えられている。
当社の元宮が、鎌ヶ岳の頂上にあるともされている。また、日本武尊の東征の際、当社神主の押根が供をした。
その帰路、日本武尊が当社に立ち寄った際に「吾が足は三重のまがりの如くしていと疲れたり」と言ったのは、当地だったともされる。
つまり当社は三重郡や三重県の名称の発祥の地の可能性がある。ただし、この日本武尊の「三重」の逸話は各地に伝わっている。
『和名類聚抄』に「葦田安之美多」郷とあるのは当社のこととされる。この郷名「葦田」は本来当社域東の「オシミ田」の転訛によるというもの。
『勢陽五鈴遺響』は 「本邑水沢ノ名二拠テ考ルニ、三重鈴鹿ノ郡界二居テ水沢川或高岡川ノ水源或菰野川各区流ノ中間ニアリテ渓河渠多ク真二地名二応セリ」とある。
古く「八郷明神」、または「夜後明神」と称された。『三重県神社誌』によれば、「葦見田八郷大明神ノ意義ナリ」だという。
明治になり、村社に列し、明治39年(1906年)12月には神饌幣帛料供進社に指定された。主祭神は志那都比古命・志那都比売命・瀬織津比咩命。風と水の神。
合祀神は、宇加之御魂神・大穴牟遅命・神日本磐余毘古命・品陀和気命・大日霊命・天児屋根命・大山祇命・天穂日命・武御名方命・須佐之男命・加具土命・素盞烏命・天目一箇命・天白羽命・五男三女神・別雷命。
例祭は10月第1日曜日で秋まつり。7月31日に水まつりが行われる。この水まつりでは、当社が合祀した諏訪神社で伝えられてきた「諏訪おどり」が奉納される。
江戸時代中期の享保5年(1720年)、農業用水工事をかけて、隣村との争いが起きた時、水沢村の辻久善(つじきゅうぜん)という名主が江戸に向かった。
久善は、私財を投じて、用水工事をやり遂げるよう数年にわたって幕府の役人を説得し、ようやく瀬戸用水を完成させた。
久善が亡くなってから、村民はこの功績を称え、当時当社の南側に奉斎されていた諏訪社で、礼おどりを奉納した。
これが「諏訪おどり」の起源である。今も、昔ながらの浴衣に花笠をつけた6人の若者が、大きな締太鼓を首からさげ廻り、踊りながら勇壮な撥捌きを披露する。
現在は市の無形民俗文化財に指定されている。他に、4月末5月初には新茶まつりがある。新茶を奉納して茶業の繁栄を祈願する。
すいざわ新茶まつり実行委員会が主催するもので、水沢茶農業協同組合から当社まで約1.5キロを、献茶パレードが行われる。
当社で神事が行われた後、小学校の女子児童9人が、巫女装束で神楽「浦安の舞」と「乙女舞」を奉納する。境内では茶摘み娘らが新茶や山菜の天ぷらを振る舞う。
なお、式内社「足見田神社」の論社は他に、市内波木町の加富神社がある。式内社「彌牟居神社」の論社は他に、亀山市両尾町に式内同名神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、事業成功、産業振興、地域安全
【関連記事】
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
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足見田神社(あしみだじんじゃ)は、三重県四日市市水沢町にある神社。近鉄湯の山線の桜駅の西約8.5キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』伊勢国三重郡にある「足見田神社」「弥牟居神社/彌牟居神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
当社旧記によれば、第11代垂仁天皇26年の鎮座と伝える。また、大正期(1912年-1926年)の「神社明細帳」には第21代雄略天皇21年の鎮座とも記す。
垂仁天皇26年は皇大神宮(内宮)の、雄略天皇21年は豊受大神宮(外宮)の鎮座年代で、もとより、伊勢の神宮(伊勢神宮)との深いかかわりが指摘されている。
『神鳳鈔』に「足見田社 神田三反」とある。また、もとは当社西方にある標高1161メートルの鎌ヶ岳(釜ヶ岳)を神聖視していたとも考えられている。
当社の元宮が、鎌ヶ岳の頂上にあるともされている。また、日本武尊の東征の際、当社神主の押根が供をした。
その帰路、日本武尊が当社に立ち寄った際に「吾が足は三重のまがりの如くしていと疲れたり」と言ったのは、当地だったともされる。
つまり当社は三重郡や三重県の名称の発祥の地の可能性がある。ただし、この日本武尊の「三重」の逸話は各地に伝わっている。
『和名類聚抄』に「葦田安之美多」郷とあるのは当社のこととされる。この郷名「葦田」は本来当社域東の「オシミ田」の転訛によるというもの。
『勢陽五鈴遺響』は 「本邑水沢ノ名二拠テ考ルニ、三重鈴鹿ノ郡界二居テ水沢川或高岡川ノ水源或菰野川各区流ノ中間ニアリテ渓河渠多ク真二地名二応セリ」とある。
古く「八郷明神」、または「夜後明神」と称された。『三重県神社誌』によれば、「葦見田八郷大明神ノ意義ナリ」だという。
明治になり、村社に列し、明治39年(1906年)12月には神饌幣帛料供進社に指定された。主祭神は志那都比古命・志那都比売命・瀬織津比咩命。風と水の神。
合祀神は、宇加之御魂神・大穴牟遅命・神日本磐余毘古命・品陀和気命・大日霊命・天児屋根命・大山祇命・天穂日命・武御名方命・須佐之男命・加具土命・素盞烏命・天目一箇命・天白羽命・五男三女神・別雷命。
例祭は10月第1日曜日で秋まつり。7月31日に水まつりが行われる。この水まつりでは、当社が合祀した諏訪神社で伝えられてきた「諏訪おどり」が奉納される。
江戸時代中期の享保5年(1720年)、農業用水工事をかけて、隣村との争いが起きた時、水沢村の辻久善(つじきゅうぜん)という名主が江戸に向かった。
久善は、私財を投じて、用水工事をやり遂げるよう数年にわたって幕府の役人を説得し、ようやく瀬戸用水を完成させた。
久善が亡くなってから、村民はこの功績を称え、当時当社の南側に奉斎されていた諏訪社で、礼おどりを奉納した。
これが「諏訪おどり」の起源である。今も、昔ながらの浴衣に花笠をつけた6人の若者が、大きな締太鼓を首からさげ廻り、踊りながら勇壮な撥捌きを披露する。
現在は市の無形民俗文化財に指定されている。他に、4月末5月初には新茶まつりがある。新茶を奉納して茶業の繁栄を祈願する。
すいざわ新茶まつり実行委員会が主催するもので、水沢茶農業協同組合から当社まで約1.5キロを、献茶パレードが行われる。
当社で神事が行われた後、小学校の女子児童9人が、巫女装束で神楽「浦安の舞」と「乙女舞」を奉納する。境内では茶摘み娘らが新茶や山菜の天ぷらを振る舞う。
なお、式内社「足見田神社」の論社は他に、市内波木町の加富神社がある。式内社「彌牟居神社」の論社は他に、亀山市両尾町に式内同名神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、事業成功、産業振興、地域安全
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