「おにた」「しこた」とも、鬼田神社とも、北の御厨、木田の氏神
[住所]三重県鈴鹿市木田町2365
[電話]059-382-3622
鬼太神社(きたじんじゃ)は、三重県鈴鹿市木田町にある神社。鈴鹿川北岸、関西本線の河曲駅の北東約500メートル。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「鬼太神社(伊勢国・河曲郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。社名については、「おにた」「しこた」など多くの読みがある。「きた」と読まれ始めたのは江戸時代になってからとも。
ただし、鎮座地名が木田であるため、当社名との関わりが指摘されている。「鬼田」とも表記される場合がある。
そもそも「きた」について、西川順土は『内宮文殿本神鳳鈔』をひいて、「これは鈴鹿川を中心にした北と南の御厨という、『キ夕』を生かした表現であろう」としている。
近世には「若宮八幡」とか「今八幡」と称せられ、現在も当社本殿と八幡社殿が並列する社殿形態になっている。『神戸藩明細帳』には「木田村式内鬼田神社」とある。
「八王子」とも呼ばれ、木田地域の氏神として崇敬され、明治6年(1873年)、村社に列し、明治41年(1908年)には若宮八幡社 稲荷社 山神社の三社を合祀した。
明治43年(1910年)、河田村の村社川神社に合祀された。しかしこれは名目のみだったようで、実際は川神社の飛地境内社として存在し続けた。
昭和21年(1946年)あるいは昭和27年(1952年)、正式に分祀され復社、現在に至っている。宝物として、場立釜1口、大絵馬1枚、日清戦争戦勝記念燈籠20基、常夜燈1対。
御祭神は、主祭神が大山津見神。大雀命・豊宇気毘売神を配祀する。例祭は10月10日で秋季大祭。
入口の鳥居をくぐり境内までは緩い坂道を上がる。高台にある拝殿までは石段を上がる。石段左側の斜面中腹にはタブノキの木の下に山神碑が祀られている。
【ご利益】
五穀豊穣、産業の繁栄、家内安全、子孫繁栄、厄除け
【関連記事】
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
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鬼太神社(きたじんじゃ)は、三重県鈴鹿市木田町にある神社。鈴鹿川北岸、関西本線の河曲駅の北東約500メートル。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「鬼太神社(伊勢国・河曲郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。社名については、「おにた」「しこた」など多くの読みがある。「きた」と読まれ始めたのは江戸時代になってからとも。
ただし、鎮座地名が木田であるため、当社名との関わりが指摘されている。「鬼田」とも表記される場合がある。
そもそも「きた」について、西川順土は『内宮文殿本神鳳鈔』をひいて、「これは鈴鹿川を中心にした北と南の御厨という、『キ夕』を生かした表現であろう」としている。
近世には「若宮八幡」とか「今八幡」と称せられ、現在も当社本殿と八幡社殿が並列する社殿形態になっている。『神戸藩明細帳』には「木田村式内鬼田神社」とある。
「八王子」とも呼ばれ、木田地域の氏神として崇敬され、明治6年(1873年)、村社に列し、明治41年(1908年)には若宮八幡社 稲荷社 山神社の三社を合祀した。
明治43年(1910年)、河田村の村社川神社に合祀された。しかしこれは名目のみだったようで、実際は川神社の飛地境内社として存在し続けた。
昭和21年(1946年)あるいは昭和27年(1952年)、正式に分祀され復社、現在に至っている。宝物として、場立釜1口、大絵馬1枚、日清戦争戦勝記念燈籠20基、常夜燈1対。
御祭神は、主祭神が大山津見神。大雀命・豊宇気毘売神を配祀する。例祭は10月10日で秋季大祭。
入口の鳥居をくぐり境内までは緩い坂道を上がる。高台にある拝殿までは石段を上がる。石段左側の斜面中腹にはタブノキの木の下に山神碑が祀られている。
【ご利益】
五穀豊穣、産業の繁栄、家内安全、子孫繁栄、厄除け
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