国内神名帳「多井明神」、江戸後期に衰微も式内比定で明治復興
[住所]岐阜県関市西田原字北平井1615
[電話]-
多為神社(たいじんじゃ)は、岐阜県関市西田原にある神社。高山本線の板祝駅の北西約5キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「多爲神社(美濃国・賀茂郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。国内神名帳『美濃国神名記』にも「従五位下 多井明神」とある。「多井宮」とも称された。
江戸時代前期の寛文5年(1665年)、代官により神域を守護する旨の禁札が出されたが、往古より西田原北手井組の十戸ほどの氏子により修繕・維持されてきたという。
江戸時代後期の天保10年(1839年)頃に社殿が腐朽し、祭祀も中絶した。しかし、明治になり、明治4年(1871年)、内務省達により、式内社に定められた。
明治5年(1872年)頃までは隣村の大杉村の村民により細々と維持されてきたが、式内比定により、行政によって祭祀が継続されることになり、活気を取り戻した。
明治6年(1873年)、西田原村・小迫間村・稲口村・迫間村・大杉村・東田原村・市橋村・深萱村の8ヶ村の郷社に列した。
明治40年(1907年)3月27日に神饌幣帛料供進社に指定された。御祭神について、明治時代の『神社明細帳』には祭神不詳とあり、長らくよく分かっていなかったようだ。
大正10年(1921年)『美濃国加茂郡誌』によれば、御神体として木像が2体あるが、古くは3体あって、神座も3座あったという。
昭和になってからの『神社明細帳』に初めて、大須禰比売命(おおすみひめみこと)が記載され、現在この女神が御祭神とされている。
ただ、御祭神の詳細は不詳。例祭は4月15日。現在の流見世棚造の本殿は、昭和47年(1972年)の再建だという。
なお、伊勢国奄芸郡にも同名の式内社があり、三重県津市の当社と同名神社に比定されているが、こちらは、物部小事の裔である田井連との関連が考えられている。
【ご利益】
地域安全、家内安全、子宝・安産

【関連記事】
・岐阜県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、岐阜県に鎮座している神社の一覧
[電話]-
多為神社(たいじんじゃ)は、岐阜県関市西田原にある神社。高山本線の板祝駅の北西約5キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「多爲神社(美濃国・賀茂郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。国内神名帳『美濃国神名記』にも「従五位下 多井明神」とある。「多井宮」とも称された。
江戸時代前期の寛文5年(1665年)、代官により神域を守護する旨の禁札が出されたが、往古より西田原北手井組の十戸ほどの氏子により修繕・維持されてきたという。
江戸時代後期の天保10年(1839年)頃に社殿が腐朽し、祭祀も中絶した。しかし、明治になり、明治4年(1871年)、内務省達により、式内社に定められた。
明治5年(1872年)頃までは隣村の大杉村の村民により細々と維持されてきたが、式内比定により、行政によって祭祀が継続されることになり、活気を取り戻した。
明治6年(1873年)、西田原村・小迫間村・稲口村・迫間村・大杉村・東田原村・市橋村・深萱村の8ヶ村の郷社に列した。
明治40年(1907年)3月27日に神饌幣帛料供進社に指定された。御祭神について、明治時代の『神社明細帳』には祭神不詳とあり、長らくよく分かっていなかったようだ。
大正10年(1921年)『美濃国加茂郡誌』によれば、御神体として木像が2体あるが、古くは3体あって、神座も3座あったという。
昭和になってからの『神社明細帳』に初めて、大須禰比売命(おおすみひめみこと)が記載され、現在この女神が御祭神とされている。
ただ、御祭神の詳細は不詳。例祭は4月15日。現在の流見世棚造の本殿は、昭和47年(1972年)の再建だという。
なお、伊勢国奄芸郡にも同名の式内社があり、三重県津市の当社と同名神社に比定されているが、こちらは、物部小事の裔である田井連との関連が考えられている。
【ご利益】
地域安全、家内安全、子宝・安産

【関連記事】
・岐阜県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、岐阜県に鎮座している神社の一覧
コメント