もと江田神社、藤原秀郷の龍神の兜、浜田城歴代城主を奉斎
[住所]三重県四日市市鵜の森1-13-6
[電話]059-352-8658
鵜森神社(うのもりじんじゃ)は、三重県四日市市鵜の森にある神社。近鉄四日市駅の南西すぐ近く。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「江田神社(伊勢国・三重郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。
隣接する鵜の森公園はかつての浜田城跡で、木立に包まれた市街地とは思えない一画になっている。
創祀年代は不詳。もとは現在地の南東に鎮座し、式内社名である江田神社と呼ばれていた。また、鵜森大明神とも。
鵜森の語源は、昔付近一帯が松林の続く海岸で、海鵜が多く生息していた森ということに由来しているという。
室町時代の文明2年(1470年)、田原美作守忠秀が浜田城を築城してから田原家(浜田家)四代が居城し、当社は歴代から崇敬された。
田原美作守忠秀は、それまで浜田城の西方芝田の地を南北に通っていた東海道を城の東側に移して交通の便を図った。
これが現在の旧東海道で、また市場の整備も行うなど殖産振興にも努めたことで、この地に市が盛んになった。つまり、四日市の語源だという。
この田原家は、浜田城築城後は浜田に改姓した。しかし、安土桃山時代の天正3年(1575年)、織田信長の武将滝川一益との戦いに敗れ、落城。
落城した浜田城は、その後織田家臣が居城としたが、天正12年(1584年)、それも羽柴秀吉に攻められ、完全に落城した。
社伝や口伝によると、慶長から万治までの間(1596年-1658年)、城主川原家の旧家臣たちがこの城跡に鵜森大明神を創立したという。
この時代の創立だと、式内社足りえないため、現在地の東南に鎮座していた当社を、城跡に遷座して再興した、ということだろうか。
ともかくその後、田原家の祖とされる田原藤太秀郷(藤原秀郷)、初代浜田城主田原美作守忠秀以下四代の霊を祀ったのが現在の当社。
江戸時代後期の天保8年(1837年)、別社として御霊社を創建し、忠秀以下四代の霊を祀り直し、鵜森大明神に天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至った。
明治42年(1909年)、菅原神社、御霊社、鵜森大明神を合祀し、従来の鵜森大明神を現社号に改称した。
即位の大典を記念し、平成2年(1990年)11月に本殿・拝殿を再建、平成4年(1992年)10月10日には社務所も再建された。いわゆる平成の大造営である。
御祭神は、天照大御神・建速須佐之男命・菅原道真公。旧鵜森大明神の田原藤太秀郷、旧御霊社の初代浜田城主忠秀以下四代の霊である。
例祭は10月第2日曜日。秋季大祭で、甘酒まつり。浜田舞獅子の奉納がある。献灯された提灯が参道を飾り、大幟が建てられる。後述の社宝の兜が公開される。
境内社に、田原稲荷大明神がある。浜田家の鬼門除けの鎮守であったと言い伝えられている。平成7年(1995年)の造営に際して、稲荷社から現社号に改称された。
旧鵜森大明神の境内社には稲荷社・菅原社・御霊社の三社あったが、この稲荷社が最古だとされる。御祭神は、猿田彦命・保食神・大宮能賣命。
境内の右手奥に包丁塚があり、その後ろにサイカチがある。県内で自生する唯一のサイカチだという。樹高17メートル、目通り幹周り2.6メートル。
十六間四方白星兜鉢が伝わる。国の重要文化財に指定されている。江戸時代前期の万治2年(1659年)、旧鵜森大明神に寄進されたものだとされる。
平安時代中期、藤原鎌足の八世孫である藤原秀郷(俵藤太)が、大ムカデを退治した時に琵琶湖の龍神から贈られたものと伝えられている。
藤原秀郷から田原家に引き継がれ、家宝として守られた。同家滅亡後は直系の堀木家が保管し、祠を建てて四代の霊とともに祀った。
その後、盗難に遭い、後に入手した鳥取の栗田家が田原家の宝物であったことを発見、旧鵜森大明神に寄進された。龍神の兜として、雨乞いに霊験があったという。
その後、江戸時代中期の寛保2年(1742年)、諏訪神社神主生川播磨守に預けられたが、大正15年(1926年)、当社に返納された。
なお、式内社「江田神社」の論社は他に、市内西坂部町の式内同名神社、菰野町蔬野の廣幡神社に合祀されたものがある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、開運招福、厄災除け、商売繁盛(公式HP)
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[電話]059-352-8658
鵜森神社(うのもりじんじゃ)は、三重県四日市市鵜の森にある神社。近鉄四日市駅の南西すぐ近く。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「江田神社(伊勢国・三重郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。
隣接する鵜の森公園はかつての浜田城跡で、木立に包まれた市街地とは思えない一画になっている。
創祀年代は不詳。もとは現在地の南東に鎮座し、式内社名である江田神社と呼ばれていた。また、鵜森大明神とも。
鵜森の語源は、昔付近一帯が松林の続く海岸で、海鵜が多く生息していた森ということに由来しているという。
室町時代の文明2年(1470年)、田原美作守忠秀が浜田城を築城してから田原家(浜田家)四代が居城し、当社は歴代から崇敬された。
田原美作守忠秀は、それまで浜田城の西方芝田の地を南北に通っていた東海道を城の東側に移して交通の便を図った。
これが現在の旧東海道で、また市場の整備も行うなど殖産振興にも努めたことで、この地に市が盛んになった。つまり、四日市の語源だという。
この田原家は、浜田城築城後は浜田に改姓した。しかし、安土桃山時代の天正3年(1575年)、織田信長の武将滝川一益との戦いに敗れ、落城。
落城した浜田城は、その後織田家臣が居城としたが、天正12年(1584年)、それも羽柴秀吉に攻められ、完全に落城した。
社伝や口伝によると、慶長から万治までの間(1596年-1658年)、城主川原家の旧家臣たちがこの城跡に鵜森大明神を創立したという。
この時代の創立だと、式内社足りえないため、現在地の東南に鎮座していた当社を、城跡に遷座して再興した、ということだろうか。
ともかくその後、田原家の祖とされる田原藤太秀郷(藤原秀郷)、初代浜田城主田原美作守忠秀以下四代の霊を祀ったのが現在の当社。
江戸時代後期の天保8年(1837年)、別社として御霊社を創建し、忠秀以下四代の霊を祀り直し、鵜森大明神に天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至った。
明治42年(1909年)、菅原神社、御霊社、鵜森大明神を合祀し、従来の鵜森大明神を現社号に改称した。
即位の大典を記念し、平成2年(1990年)11月に本殿・拝殿を再建、平成4年(1992年)10月10日には社務所も再建された。いわゆる平成の大造営である。
御祭神は、天照大御神・建速須佐之男命・菅原道真公。旧鵜森大明神の田原藤太秀郷、旧御霊社の初代浜田城主忠秀以下四代の霊である。
例祭は10月第2日曜日。秋季大祭で、甘酒まつり。浜田舞獅子の奉納がある。献灯された提灯が参道を飾り、大幟が建てられる。後述の社宝の兜が公開される。
境内社に、田原稲荷大明神がある。浜田家の鬼門除けの鎮守であったと言い伝えられている。平成7年(1995年)の造営に際して、稲荷社から現社号に改称された。
旧鵜森大明神の境内社には稲荷社・菅原社・御霊社の三社あったが、この稲荷社が最古だとされる。御祭神は、猿田彦命・保食神・大宮能賣命。
境内の右手奥に包丁塚があり、その後ろにサイカチがある。県内で自生する唯一のサイカチだという。樹高17メートル、目通り幹周り2.6メートル。
十六間四方白星兜鉢が伝わる。国の重要文化財に指定されている。江戸時代前期の万治2年(1659年)、旧鵜森大明神に寄進されたものだとされる。
平安時代中期、藤原鎌足の八世孫である藤原秀郷(俵藤太)が、大ムカデを退治した時に琵琶湖の龍神から贈られたものと伝えられている。
藤原秀郷から田原家に引き継がれ、家宝として守られた。同家滅亡後は直系の堀木家が保管し、祠を建てて四代の霊とともに祀った。
その後、盗難に遭い、後に入手した鳥取の栗田家が田原家の宝物であったことを発見、旧鵜森大明神に寄進された。龍神の兜として、雨乞いに霊験があったという。
その後、江戸時代中期の寛保2年(1742年)、諏訪神社神主生川播磨守に預けられたが、大正15年(1926年)、当社に返納された。
なお、式内社「江田神社」の論社は他に、市内西坂部町の式内同名神社、菰野町蔬野の廣幡神社に合祀されたものがある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、開運招福、厄災除け、商売繁盛(公式HP)
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