日本武尊の弟で当地開拓者を祀る、天武朝以来の御館獅子舞
[住所]三重県四日市市西坂部町3653
[電話]059-331-5030

江田神社(えだじんじゃ)は、三重県四日市市西坂部町にある神社。近鉄四日市駅の北西約5.5キロ。国道365号線の近く。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「江田神社(伊勢国・三重郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。古来より江田大明神と称えられた。伊勢国刑部郷の祖といわれる五十功彦命(いとこひこのみこと)を主祭神とする。

五十功彦命は、第12代景行天皇の皇子で日本武尊の異母弟。日本武尊とともに各地に転戦し、後に当地に留まり、国造として耕地を開墾、統治した。

日本武尊が伊吹山で妖神と戦い、病になり、帰る途中にこの近くの御足洗池で足を洗い、「吾が足三重にぞ勾る」と言った。

これは、日本武尊が五十功彦命を訪ねるためのものであったと伝えられている。その後、飛鳥時代、第40代天武天皇は、当社に獅子頭と神面を奉納した。

以来、当社に伝わる御館獅子舞の起源である。この獅子舞神事は、椿大神社を原点として発したものと考えられている。『椿大明神獅子舞御祈祷之由来』に詳細が伝わる。

それによれば、強烈かつ優秀な神傑が出現し、百獣の王である獅子を自由自在に飼いならし、教導し、これを祓い清めるよう努力、奮斗するさまを表した舞。

獅子舞神楽とも称し、庶民の間に昔ながらの神事を重んじ、氏神の祭礼、産土神の祭りを盛んにし、祈年行事の獅子舞神楽として継承されたものだという。

平安時代、鎮守府将軍に任じられ、平将門の乱の鎮圧にあたった藤原秀郷が、着用したと伝えられる甲冑1基が伝わる。

鎌倉時代後期の弘安4年(1281年)の棟札に「奉安江田大神宮内」とある。かつて数十町歩にわたり七堂伽藍が立ち並び、南北朝時代、楠木正成が戦勝を祈願した。

祠を寄進した大森某家の家紋が藤に大文字だったため、春日大明神とも称された。安土桃山時代の天正3年(1575年)、織田信長の軍勢に攻められて全焼した。

後年、現在地に遷座して復興した。西坂部には、江田田、堂地、護摩田、垣内(社家の住所)などがあり、また獅子塚、面塚、鉾塚の三塚がある。

この三つの塚は、天正年間 (1573年-1593年)以前に破損した獅子本体を埋葬したものと伝えられる。現在も9月1日に塚祭を斎行している。

明治になり、村社に列し、明治39年(1906年)12月、神饌幣帛料供進社に指定された。

明治41年(1908年)4月に西坂部地内の各社を、明治42年(1909年)5月に東坂部地内の各社を合祀した。昭和26年(1951年)3月、東坂部町字四ツ谷へ刑部神社を復社した。

主祭神は五十功彦尊。大鷦鷯天皇大日霊貴尊誉田別尊・天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)・建速須佐之男命大山祇命・天照大御神を合祀している。

例祭は10月11日で秋祭り。現在は10月体育の日。先述の御館獅子舞が奉納される。現在の舞は、山本流を習ったもので、家内安全、五穀豊穣が祈願される。

演目は初段の舞、扇の舞、後起こしの舞、御湯立の神事、小獅子の舞、花の舞が伝承されている。市指定無形文化財。

なお、式内社「江田神社」の論社は他に、市内鵜の森の鵜森神社、菰野町蔬野の廣幡神社に合祀されたものがある。

【ご利益】
無病息災、家内安全、悪疫退散、開運招福
江田神社 三重県四日市市西坂部町
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