矢頭山藏王権現、往時の三社体制の本宮の地、奥社に大スギ
[住所]三重県津市一志町波瀬4248
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波氐神社(はてじんじゃ)は、三重県津市一志町波瀬にある神社。難字のためか、波弖神社とも表記される。名松線の井関駅の南西約4キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「波氐神社(伊勢国・壱志郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

創祀年代は不詳。創祀は飛鳥時代、第42代文武天皇天皇(在位:697年-707年)の御代、役の小角(役行者)が開いた矢頭山(八頭山)の信仰に関わる。

一片の雲もなく晴れわたったある日、小角が天の一方を眺めていると、にわかに2本の白羽の矢がとび下りてきて、山の峰をかすめ麓の里に降下した。

そこで小角は、この山を矢頭山と名付けて尊崇し、蔵王権現を祀ったと伝えられている。

標高723メートルの矢頭山は、南から牛ヶ嶺(南ヶ嶽)、不動ヶ嶽、風尾ヶ嶽、御峯、地蔵嶽とそれぞれ峯が寄り合って高く聳える。

そのため、中勢からはもちろん、北勢、南勢からも眺められ、往時は漁船の帰港の目標ともなったという。

八頭山の神を奉祀する神社は古来、波瀬村に下記三社あり、この三社を矢頭山藏王権現(八頭山蔵王権現)と称していた。

・村中央の字宮山(現在地)に小八頭神社-本宮
・八頭山麓字須弖に祀る八頭神社-中宮
・山頂に高岳神社-奥宮

平安時代初期の延暦20年(801年)6月、伝教大師最澄によって社殿が改造されたという。矢頭山天徳院神宮寺が別当として祭祀を司ってきた。

特に伊勢国司の北畠氏は尊信の念が深く、神領などの寄進を行い、その経営を補助してきた。仁王峠には関所を設け、立派な楼門もあったという。

江戸時代になると、紀州藩の領地となって、紀州徳川家の代々の祈願所となった。往時の神領は高21石あまりにも達したという。

中宮から奥宮への道は往時、女人禁制とされた。明治6年(1873年)、本宮の小八頭神社が現社号に改称、神職奉仕となり、同時に神宮寺は廃止された。

明治42年(1909年)、中宮及び奥宮など村内32社を小八頭神社に合祀、明治43年(1910年)、社殿その他を新築した。

昭和15年(1940年)、紀元2600年記念として、昇格運動が進み、昭和20年(1945年)、県社に列した。

昭和30年(1955年)、本殿の屋根を葺き替えたが、拝殿、幣殿などは老朽化のため、昭和62年(1987年)11月に改築し、現在に至っている。

御祭神は火雷神。異説として、出口延経『神名帳考証』や『神社要録』では多奈波太姫、橋村正身『神名帳考証再考』では倉稲魂命としている。合祀神は以下の通り。

安閑天皇・大屋津姫命・建速素盞嗚尊・八柱皇大神・火産霊命・宇迦之御魂命・言代主命伊弉册尊磐長姫命・迦具土神・応神天皇・勝手大神・子守神・地主大神・菅原道真大日霊命白山比咩命・大海津見神・大国主命市杵島姫命大山祇神

神紋は「丸に並び矢」。例祭は10月10日で秋季例祭。市指定無形民俗文化財の野口御神楽が奉納される。

この獅子舞は、江戸時代後期から行われていたとされ、戦中には「獅子舞があるから戦死者が出ない」と言われるほどだった。

戦後、人手不足で途絶えたが、昭和の後半になり復活。今では市立波瀬小学校の児童を対象に伝承教室が開かれている。

字須弖のもとの中宮、八頭神社は現在、当社の奥社と呼ばれており、小祠と、樹高30メートルを越えるスギが数本そそり立っている。

一番大きなスギは、ポッコリおへそが付いてるようなユニークな樹形をしており、「矢頭(やず)の大スギ」と呼ばれている。

樹高42.5メートル、胸高周囲9.56メートルで、県の天然記念物に指定されている。なお、式内社「波氐神社」の論社は他に、松阪市星合町の当社および式内同名神社がある。

【ご利益】
厄災除け、身体壮健、健康長寿、リフレッシュ
波氐神社 三重県津市一志町波瀬
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