式内論社もむしろ七夕の社、鵲橋、伊勢の七夕伝承の発祥?
波氐神社 三重県松阪市星合町507
[住所]三重県松阪市星合町507
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波氐神社(はてじんじゃ)は、三重県松阪市星合町にある神社。『延喜式神名帳』にある「波氐神社(伊勢国・壱志郡)」に比定される式内社(小社)の論社。御朱印の有無は不明。

紀勢本線の六軒駅の北東約4キロ。当社の北には、伊勢湾に流れ込む雲出川が流れている。鵲小学校の北に位置する。星合神社とも。

創祀年代、由緒は不詳。古来、須氐(すて)と称していたが、明治38年(1905年)3月13日、現社号に改称した。

そのため、式内根拠は薄弱、ともされる。他の式内論社に、津市一志町波瀬の当社および式内同名神社ががある。

出口延経『神名帳考証』によれば、御祭神は多奈波太姫とある。天棚機姫命と同一神とされる。

室町時代の永享5年(1433年)成立の『伊勢紀行』などに、七夕が祀られていたと記されている。当社の南200メートルには鵲橋がある。

鵲橋は、織姫と彦星が年に1回出合うという天の川に架かる橋で、実は鵲(かささぎ)という鳥だという。

三雲管内、新田開発以前の白砂青松の地だった当地で行われていた七夕祭は、「伊勢星合祭」と呼ばれ、当地の七夕伝説の発祥であり、伊勢国の七夕伝説の発祥だともいう。

江戸時代後期の文政2年(1815年)、群馬県黒熊「三木貞樹家文書」の道中日記の中に、下記のようにあり、すでによく知られていたようだ。
星合村と申処七夕の社有り、拝礼いたし、それより六軒に出て、この道廿丁ばかりと承り候処、殊の外遠し
鵲橋には、明治36年(1903年)に建立された「鵲橋之碑」が建っている。その碑文の中には、大伴家持の下記の歌が刻まれている。
鵲の 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
明治41年(1908年)2月5日、鵲村笠松の村社八雲神社、無格社鵲神社、星合の村社菅原神社、小舟江の村社八雲神社、五主の村社綿積神社と境内社の事比羅神社を合祀した。

合祀神は、天児屋根命天忍穂耳命木花開邪姫命誉田別尊と、不詳一座。当社北東に、境外社として菅原神社がある。

毎年8月7日、当社と鵲橋を中心として「鵲七夕まつり」が行われる。鵲小学校管内の小舟江町、笠松町、星合町、五主町地区で行われるもの。

当社で行われてきた七夕祭を引き継ぐものだが、少子化で存続が危ぶまれ、平成17年(2005年)から鵲地区の祭りとして再スタートした。

平成18年(2006年)から御輿が登場、午前中に行われていたが、七夕だから夕方がよいということで、平成22年(2010年)から夕方開催となった。

祭りの主人公の織姫、彦星は鵲小学校の6年生から選ばれる。当社でお祓いを受けた後、織姫は当社の東にある綿積神社から、彦星は同じく西にある八雲神社から出発する。

御輿とともに進んだ二つの行列は、鵲橋に到着。橋の両側に立った織姫と彦星は橋が渡らず途方に暮れるが、鵲が飛んできて橋を架け二人は再会することができる。

【ご利益】
縁結び、恋愛成就、開運招福
波氐神社 三重県松阪市星合町
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