式内・佐多神社とも、諏訪・日吉を合祀、伝統の大祭・祇園祭
[住所]新潟県上越市西本町4-2-25
[電話]025-543-2895
八坂神社(やさかじんじゃ)は、新潟県上越市西本町にある神社。信越本線の直江津駅の北約500メートル。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「佐多神社(越後国・頸城郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。直江津の八坂神社とも。
創祀年代は不詳。京都の八坂神社の流れを汲み、奈良時代、第45代聖武天皇の「国分寺建立の詔」により各地に造られた「国府」の地に分祀されたと伝わる。
「今町祇園社」と呼ばれたが、江戸時代前期の元禄2年(1689年)に諏訪社を、江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)に日吉社を合祀した。
この諏訪社は平安時代の天暦2年(948年)の鎮座で、直江の津産土神として崇敬された。また、日吉社は万寿5年/長元元年(1028年)ころの鎮座と伝わる。
以来、三ヶ所神社、諏訪神社などとも呼ばれ、三柱神社とも称され、地図でも三柱神社(日吉・諏訪・八坂)などと記載されることもある。
江戸時代初期の元和4年(1618年)6月2日には永見志摩守が、江戸時代前期の寛永2年(1625年)には松平越後守が寄進したと伝わる。
明治6年(1873年)12月、村社に列し、昭和3年(1928年)には現社号に改称して郷社に昇格した。八王子社とも呼ばれる。
御祭神は須佐之男命。建御名方命・大山咋命・菅原大神を配祀する。往時は牛頭天王とも呼ばれ、八王子社の通り、五男三女神を祀ったとも。また、神大市比売命も祀る。
例祭は7月23日-29日。いわゆる祇園祭で、その起源は平安時代中期の越後国府時代ともされる。高田城開府以後も上越唯一の大祭として受け継がれている。
祇園祭について、文書で確認できるのは、元和4年(1618年)の高田城主である酒井忠勝の寄進状であり、しっかり斎行するようお願いする内容になっている。
旧高田、旧直江津両市にわたって祭典が行われる。伝承によれば、慶長19年(1614年)、直江津福島城の高田移転によって、直江津のほとんど全部の社寺が高田へ移った。
しかし、当社は移らなかった。そこで当社の神主は、初代高田城主松平忠輝に願い出て、朱印地をもらうかわりに高田の祇園祭を出張して行うことを許された、という。
以来、毎年旧暦6月7日、高田市中の神輿渡御を行い、7日間仮殿で国家安全、家運長久の祈願祭を執行し、14日再び市中渡御、夜稲田より船で直江津に還御する例となった。
14日夜の直江津河口には「夜の荒川御神輿が下る、川は万燈の迎え船、祇園ばやしの笛や太鼓で、夜が明ける」と直江津小唄に歌われている。
現在の祇園祭は高田が7月23日から26日 直江津が7月26日から29日。いわゆる直江津祇園祭として多くの慣習で賑わう。
26日には、迎え花火と呼ばれる約5000発の花火が打ち上げられる中、高田から御神輿が直江津へ舟で運ばれる川下りが行われる。
29日には、直江津の若衆が、米俵を担いで約100メートルの当社参道を走り抜ける御饌米奉納が行われ、1週間にわたる祭典のフィナーレを飾る。
現在の本殿は江戸時代中期の享保6年(1721年)に再建されたもので、拝殿は江戸時代後期の天保14年(1843年)に十数年の年月をかけて完成したとされている。
記録によれば、拝殿を手掛けたのは今町(直江津)の「增五郎」「作兵衛」の2人の棟梁が、彫刻は同じく今町の彫刻師「富吉」の作だという。
境内社に、秋葉神社・松尾社がある。なお、式内社「佐多神社」の論社は他に、糸魚川市の宮平の剱神社、北山の式内同名神社がある。
【ご利益】
厄災除け、無病息災、悪疫退散、身体壮健
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八坂神社(やさかじんじゃ)は、新潟県上越市西本町にある神社。信越本線の直江津駅の北約500メートル。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「佐多神社(越後国・頸城郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。直江津の八坂神社とも。
創祀年代は不詳。京都の八坂神社の流れを汲み、奈良時代、第45代聖武天皇の「国分寺建立の詔」により各地に造られた「国府」の地に分祀されたと伝わる。
「今町祇園社」と呼ばれたが、江戸時代前期の元禄2年(1689年)に諏訪社を、江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)に日吉社を合祀した。
この諏訪社は平安時代の天暦2年(948年)の鎮座で、直江の津産土神として崇敬された。また、日吉社は万寿5年/長元元年(1028年)ころの鎮座と伝わる。
以来、三ヶ所神社、諏訪神社などとも呼ばれ、三柱神社とも称され、地図でも三柱神社(日吉・諏訪・八坂)などと記載されることもある。
江戸時代初期の元和4年(1618年)6月2日には永見志摩守が、江戸時代前期の寛永2年(1625年)には松平越後守が寄進したと伝わる。
明治6年(1873年)12月、村社に列し、昭和3年(1928年)には現社号に改称して郷社に昇格した。八王子社とも呼ばれる。
御祭神は須佐之男命。建御名方命・大山咋命・菅原大神を配祀する。往時は牛頭天王とも呼ばれ、八王子社の通り、五男三女神を祀ったとも。また、神大市比売命も祀る。
例祭は7月23日-29日。いわゆる祇園祭で、その起源は平安時代中期の越後国府時代ともされる。高田城開府以後も上越唯一の大祭として受け継がれている。
祇園祭について、文書で確認できるのは、元和4年(1618年)の高田城主である酒井忠勝の寄進状であり、しっかり斎行するようお願いする内容になっている。
旧高田、旧直江津両市にわたって祭典が行われる。伝承によれば、慶長19年(1614年)、直江津福島城の高田移転によって、直江津のほとんど全部の社寺が高田へ移った。
しかし、当社は移らなかった。そこで当社の神主は、初代高田城主松平忠輝に願い出て、朱印地をもらうかわりに高田の祇園祭を出張して行うことを許された、という。
以来、毎年旧暦6月7日、高田市中の神輿渡御を行い、7日間仮殿で国家安全、家運長久の祈願祭を執行し、14日再び市中渡御、夜稲田より船で直江津に還御する例となった。
14日夜の直江津河口には「夜の荒川御神輿が下る、川は万燈の迎え船、祇園ばやしの笛や太鼓で、夜が明ける」と直江津小唄に歌われている。
現在の祇園祭は高田が7月23日から26日 直江津が7月26日から29日。いわゆる直江津祇園祭として多くの慣習で賑わう。
26日には、迎え花火と呼ばれる約5000発の花火が打ち上げられる中、高田から御神輿が直江津へ舟で運ばれる川下りが行われる。
29日には、直江津の若衆が、米俵を担いで約100メートルの当社参道を走り抜ける御饌米奉納が行われ、1週間にわたる祭典のフィナーレを飾る。
現在の本殿は江戸時代中期の享保6年(1721年)に再建されたもので、拝殿は江戸時代後期の天保14年(1843年)に十数年の年月をかけて完成したとされている。
記録によれば、拝殿を手掛けたのは今町(直江津)の「增五郎」「作兵衛」の2人の棟梁が、彫刻は同じく今町の彫刻師「富吉」の作だという。
境内社に、秋葉神社・松尾社がある。なお、式内社「佐多神社」の論社は他に、糸魚川市の宮平の剱神社、北山の式内同名神社がある。
【ご利益】
厄災除け、無病息災、悪疫退散、身体壮健
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