大己貴命が上陸した地、江戸後期の社殿と彫刻、スダジイ
御島石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258
[住所]新潟県柏崎市西山町石地1258
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御島石部神社(みしまいそべじんじゃ)は、新潟県柏崎市西山町石地にある神社。日本海にほど近く、越後線の小木ノ城駅の西約5キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「御島石部神社/御嶋石部神社(越後国・三島郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。かつて大己貴命が頸城郡の居多から船で当地を訪れた際、岩の掛橋が海中から磯辺まで続き、不思議に思い上陸した。

そこで、当地の荒神である二田彦・石部彦が現れて、大己貴命を歓待したという。当社の御神体は、この際大己貴命が残した剣である。

また、当社の祭礼で神輿が陸から島に御渡りし、その時、御神酒を捧げる吉例があるが、この創祀の由緒に由来する。

石部彦は当社名の由来になったものか。二田彦も不明だが、市内には西山町二田の地があり、物部神社が鎮座する。物部神社では当地の二田に関する伝承が残る。

式内社「御島石部神社」の論社は他に、市内北条に当社および式内同名神社がある。また、当社近くにはやはり式内論社の石井神社がある。

市内北条に当社および式内同名神社の近くにも、やはり式内論社で別の石井神社がある。「石」で共通した両者に関連があるとの指摘もある。

平安時代の長和5年(1016年)の棟札に「御島石部大菩薩」、南北朝時代の貞和3年(1347年)の由緒書と室町時代の応永5年(1398年)の棟札に「御島石部神社」とある。

戦国時代の永禄8年(1565年)、知徳院より30貫の社領が安堵され、安土桃山時代の慶長3年(1598年)にも社領が安堵された。

江戸時代初期の元和8年(1622年)には松平伊豫守が、江戸時代前期の寛永元年(1624年)には松平忠輝がそれぞれ社領を安堵した。

天和3年(1683年)5月、除地高7石2斗8升が記録されている。中古、末社の二田神社を合祀したことにより、「二田大菩薩」とも称した。

江戸時代前期の元禄年間(1688年-1704年)には「御島二田神社」と称した。しかし江戸時代中期の天明2年(1782年)、現社号に復した。

明治5年(1872年)、村社に列した。御祭神は大己貴命。例祭は4月20日の後の日曜日。延々と続く石畳の参道は,寄進によるものである。

拝殿の前に焼き物の狛犬が置かれている。江戸時代後期の天保14年(1843年)の棟札が残されており、本殿・幣殿・拝殿とも同時期の建築だと考えられている。

拝殿は、入母屋造、桟瓦葺。向拝部分は細かい装飾で埋められている。本殿には名工として知られる小林源太郎(熊谷源太郎)の弘化2年(1845年)作の彫刻が施されている。

「御島石部神社社殿」として市指定有形文化財。なお、源太郎は石川雲蝶とともに、長岡市谷内の秋葉三尺坊奥院を手がけたことで知られる。

境内末社に金刀比羅宮(大物主命)があり、その金刀比羅宮の前に味わいのある顔をした、台座に明治31年(1898年)11月17日の刻銘がある狛犬が安置されている。

金刀比羅宮の他、神明宮(天照皇大神)、八坂神社(須佐之男尊)、湯殿山神社(大山祇命)、稲荷神社(保食神)、諏訪神社(健御名方命)がある。

また、二田神社(宇麻志麻治命)、塞神々社(八衢彦神・八衢姫神・久奈戸神)、諏訪神社(建御名方神)の三座は、社殿破壊により本社に合祀されている。

当社の裏の石部山一帯には約300本の暖地性の椎(スダジイ)の老樹が密生繁茂している。中には根回り6メートル以上のもの3本、目通り3メートル以上のものが10本以上ある。

県内では稀な椎の純林で、日本海沿岸では樹叢しているものの北限であり、県の天然記念物に指定されている。また、樹叢中のウラボシノコギリシダは日本の北限とされている。

【ご利益】
海上安全、事業成功、リフレッシュ
御島石部神社 新潟県柏崎市西山町石地
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