金倉山の下の嶺に鎮座した2柱、江戸中期に現在地に遷座
[住所]新潟県長岡市六日市町1775
[電話]-
三宅神社(みやけじんじゃ)は、新潟県長岡市六日市町にある神社。上越線の越後滝谷駅の南約2キロ。上越線の線路の近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「三宅神社二座(越後国・古志郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。
社伝によれば、第8代孝元天皇の皇子である大彦命が第10代崇神天皇の勅命を受けて北陸を平定し、越の国に来た。
大彦命の御子である波多武日子命が、新羅の天日桙命の姫である天美明命と結ばれ、当地の東にある三明山(金倉山)に鎮まった。
幡持山(上の嶺)・幕山(中の嶺)・美明山(下の嶺、北の嶺)の金倉山三岳に三殿を作り、幡持山に大彦命、幕山に天日桙命、美明山に波多武日子命と天美明命が祀られた。
後世、皇室直轄の屯倉が置かれていたことから三宅となった地に、大彦命は山麓の妙見、天日桙命は中潟、波多武日子命と姫天美明命は大久保が岡(六日市)に遷座した。
そのため、今は当地を含めて南北に、妙見、中潟、六日市(当社)と三つの集落に三宅神社が鎮座している。また、金倉山山頂には奥の院の石碑が立っている。
御祭神は波多武日子命。天美明命を配祀する。例祭は10月9日。もとは現在地よりも東100メートルほどの小高い丘の上に鎮座したという。
江戸時代中期の正徳2年(1712年)、現在地に遷座し、社殿が造営された。現在の社殿は明治2年(1869年)に再建されたもの。
拝殿は入母屋、銅板葺、妻入、桁行4間、梁間3間、正面1間向拝付、正面妻飾りには鬼面が掲げられている。本殿は切妻、鉄板葺、平入。
明治40年(1907年)、字外ノ窪の八幡社(応神天皇)と字下山の諏訪社(健御名方命)を、大正4年(1915年)には字外ノ窪の神明社(天照大神)を合併した。
【ご利益】
地域安全、厄災除け、開運招福
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三宅神社(みやけじんじゃ)は、新潟県長岡市六日市町にある神社。上越線の越後滝谷駅の南約2キロ。上越線の線路の近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「三宅神社二座(越後国・古志郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。
社伝によれば、第8代孝元天皇の皇子である大彦命が第10代崇神天皇の勅命を受けて北陸を平定し、越の国に来た。
大彦命の御子である波多武日子命が、新羅の天日桙命の姫である天美明命と結ばれ、当地の東にある三明山(金倉山)に鎮まった。
幡持山(上の嶺)・幕山(中の嶺)・美明山(下の嶺、北の嶺)の金倉山三岳に三殿を作り、幡持山に大彦命、幕山に天日桙命、美明山に波多武日子命と天美明命が祀られた。
後世、皇室直轄の屯倉が置かれていたことから三宅となった地に、大彦命は山麓の妙見、天日桙命は中潟、波多武日子命と姫天美明命は大久保が岡(六日市)に遷座した。
そのため、今は当地を含めて南北に、妙見、中潟、六日市(当社)と三つの集落に三宅神社が鎮座している。また、金倉山山頂には奥の院の石碑が立っている。
御祭神は波多武日子命。天美明命を配祀する。例祭は10月9日。もとは現在地よりも東100メートルほどの小高い丘の上に鎮座したという。
江戸時代中期の正徳2年(1712年)、現在地に遷座し、社殿が造営された。現在の社殿は明治2年(1869年)に再建されたもの。
拝殿は入母屋、銅板葺、妻入、桁行4間、梁間3間、正面1間向拝付、正面妻飾りには鬼面が掲げられている。本殿は切妻、鉄板葺、平入。
明治40年(1907年)、字外ノ窪の八幡社(応神天皇)と字下山の諏訪社(健御名方命)を、大正4年(1915年)には字外ノ窪の神明社(天照大神)を合併した。
【ご利益】
地域安全、厄災除け、開運招福
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