仁徳朝に祭祀の伝承、本殿裏の御神霊石、夏越の大祓祭
[住所]新潟県阿賀野市宮下195
[電話]0250-62-4755
旦飯野神社(あさいのじんじゃ/あさいいのじんじゃ)は、新潟県阿賀野市宮下にある神社。羽越本線の水原駅の南東約4.4キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』越後国蒲原郡にある「旦飯野神社」「中山神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。旧笹神村。
創祀年代は不詳。従来からの神職家である鈴木家の遠祖、長野麿(長野麻呂)が、第15代応神天皇の御弓、衣、石を奉斎したことが起源だという。
第16代仁徳天皇元年8月15日、大山守皇子へ貢米を奉ったという。この時、角鹿笥大神・飯津神を奉斎すれば、豊作に恵まれる、として、現社号に改めた。
旦は太陽が昇る様子、飯は米、野は田畑を意味し、この地が阿賀野市・笹神地区で初めて稲作りを行った場所とされている。
氏子というものが存在せず、当地の産土神でもなく、鈴木家の私的神社という位置付け。応神天皇を祀ったため、山浦八幡宮とも称されたが、そもそも八幡でもないのだろう。
仁徳天皇の御宇より、戦国時代の永正3年(1506年)までの間、4度の造営が記録されているという。この年、5月20日に5度目の造営が行われたという。
中世、上杉家の臣で、笹岡城主山浦国清・今井源右衛門に崇敬されたが、笹岡城の落城によって、当社も大破した。
江戸時代中期の享保4年(1719年)10月、神官筑後正吉重が元宮と呼ばれる地に遷座して造営、再興した。寛政4年(1792年)3月、現在地に遷座し、造替が行われた。
寛政4年当時のものが現在の本殿である。明治4年(1871年)、第二十四区の郷社となったが、明治6年(1873年)には村社に改められた。
古びた隋神門があるが、明治42年(1909年)、日露戦争戦勝を記念して建てられたもの。門をくぐると石段が境内まで続く。
御祭神は、誉田別命。豊受姫命を配祀し、天照皇大神・天児屋根命を相殿に祀る。由緒の応神天皇の弓・衣・石なども現在に伝わり、祭祀されている。
例祭は8月15日。かつてはこの日に甘酒祭も行われた。甘酒祭は2代穂田麻呂が気比大神、五穀の神を奉祀した故事に由来するもの。
2代穂田麻呂の奉斎は、由緒にある、角鹿笥大神・飯津神の奉斎のことか。そうなると、角鹿笥大神=気比大神、飯津神=五穀の神となる。
幕末の安政年間(1854年-1860年)までは8月14日に初穂米を献じ、それを甘酒にして参詣者にふるまっていたという。現在は行われていない。
また、7月15日にも祭典があり、昭和35年(1960年)まではこの日に農耕馬による奉納競馬が行われたという。
6月30日には夏越の大祓祭が行われる。茅の輪くぐりなどがある。拝殿では人形代に息を吹きかけ「無病息災」「家内安全」など祈念する。
奉納の神事では、巫女舞や、宮司による迫力ある天狗の舞、コミカルな鯛釣り神楽、御神穀撒きなどが奉納される。
「天灯」伝承が残る。昔、佐渡方面で、光り輝く玉が出現し、佐渡の人々が後を追ってみると、この地、この丘の上に降臨した。
訪ねて見ると、当社があったという。隠岐の伊勢命神社でも同様に光る玉の伝承がある。日本海側に多く見られる。日本海の気象条件との関わりか。
新羅の天之日矛が、赤い玉から生れた阿加流比売を追って日本へ来たという話との関連も指摘される。
その不思議な球が現在、本殿背後にある丸石で、「御神霊石」と呼ばれており、触るだけで御利益があるとされ、パワースポットとしても知られている。
境内社に、風神社(志那都比古命・志那都比売命)・香椎神社・大三輪神社・三峰神社がある。風神社の社殿には素焼きの盃がいくつもぶら下がっている。
境内には、季節により、ミニトマトの鉢植えや、シイタケの木が置いてあり、自由に持ち帰ってもよいという札が置いてある。甘酒祭以来の振る舞いの慣習か。
なお、式内社「旦飯野神社」の論社は他に、新潟市秋葉区朝日に当社および式内同名神社がある。また、旧鎮座地が中山村だったため、式内社「中山神社」の論社。
式内社「中山神社」の論社は他に、五泉市橋田と三条市西大崎にそれぞれ式内同名神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、開運招福
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[電話]0250-62-4755
旦飯野神社(あさいのじんじゃ/あさいいのじんじゃ)は、新潟県阿賀野市宮下にある神社。羽越本線の水原駅の南東約4.4キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』越後国蒲原郡にある「旦飯野神社」「中山神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。旧笹神村。
創祀年代は不詳。従来からの神職家である鈴木家の遠祖、長野麿(長野麻呂)が、第15代応神天皇の御弓、衣、石を奉斎したことが起源だという。
第16代仁徳天皇元年8月15日、大山守皇子へ貢米を奉ったという。この時、角鹿笥大神・飯津神を奉斎すれば、豊作に恵まれる、として、現社号に改めた。
旦は太陽が昇る様子、飯は米、野は田畑を意味し、この地が阿賀野市・笹神地区で初めて稲作りを行った場所とされている。
氏子というものが存在せず、当地の産土神でもなく、鈴木家の私的神社という位置付け。応神天皇を祀ったため、山浦八幡宮とも称されたが、そもそも八幡でもないのだろう。
仁徳天皇の御宇より、戦国時代の永正3年(1506年)までの間、4度の造営が記録されているという。この年、5月20日に5度目の造営が行われたという。
中世、上杉家の臣で、笹岡城主山浦国清・今井源右衛門に崇敬されたが、笹岡城の落城によって、当社も大破した。
江戸時代中期の享保4年(1719年)10月、神官筑後正吉重が元宮と呼ばれる地に遷座して造営、再興した。寛政4年(1792年)3月、現在地に遷座し、造替が行われた。
寛政4年当時のものが現在の本殿である。明治4年(1871年)、第二十四区の郷社となったが、明治6年(1873年)には村社に改められた。
古びた隋神門があるが、明治42年(1909年)、日露戦争戦勝を記念して建てられたもの。門をくぐると石段が境内まで続く。
御祭神は、誉田別命。豊受姫命を配祀し、天照皇大神・天児屋根命を相殿に祀る。由緒の応神天皇の弓・衣・石なども現在に伝わり、祭祀されている。
例祭は8月15日。かつてはこの日に甘酒祭も行われた。甘酒祭は2代穂田麻呂が気比大神、五穀の神を奉祀した故事に由来するもの。
2代穂田麻呂の奉斎は、由緒にある、角鹿笥大神・飯津神の奉斎のことか。そうなると、角鹿笥大神=気比大神、飯津神=五穀の神となる。
幕末の安政年間(1854年-1860年)までは8月14日に初穂米を献じ、それを甘酒にして参詣者にふるまっていたという。現在は行われていない。
また、7月15日にも祭典があり、昭和35年(1960年)まではこの日に農耕馬による奉納競馬が行われたという。
6月30日には夏越の大祓祭が行われる。茅の輪くぐりなどがある。拝殿では人形代に息を吹きかけ「無病息災」「家内安全」など祈念する。
奉納の神事では、巫女舞や、宮司による迫力ある天狗の舞、コミカルな鯛釣り神楽、御神穀撒きなどが奉納される。
「天灯」伝承が残る。昔、佐渡方面で、光り輝く玉が出現し、佐渡の人々が後を追ってみると、この地、この丘の上に降臨した。
訪ねて見ると、当社があったという。隠岐の伊勢命神社でも同様に光る玉の伝承がある。日本海側に多く見られる。日本海の気象条件との関わりか。
新羅の天之日矛が、赤い玉から生れた阿加流比売を追って日本へ来たという話との関連も指摘される。
その不思議な球が現在、本殿背後にある丸石で、「御神霊石」と呼ばれており、触るだけで御利益があるとされ、パワースポットとしても知られている。
境内社に、風神社(志那都比古命・志那都比売命)・香椎神社・大三輪神社・三峰神社がある。風神社の社殿には素焼きの盃がいくつもぶら下がっている。
境内には、季節により、ミニトマトの鉢植えや、シイタケの木が置いてあり、自由に持ち帰ってもよいという札が置いてある。甘酒祭以来の振る舞いの慣習か。
なお、式内社「旦飯野神社」の論社は他に、新潟市秋葉区朝日に当社および式内同名神社がある。また、旧鎮座地が中山村だったため、式内社「中山神社」の論社。
式内社「中山神社」の論社は他に、五泉市橋田と三条市西大崎にそれぞれ式内同名神社がある。
【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、開運招福
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