五泉城跡、平安前期の勧請、式内の小布勢、宇都良波志か、廣海歌碑
[住所]新潟県五泉市宮町5-46
[電話]0250-42-3220

五泉八幡宮(ごせんはちまんぐう)は、新潟県五泉市宮町にある神社。磐越西線の北五泉駅の南約800メートル。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』越後国蒲原郡にある「小布勢神社」に比定される式内社(小社)の論社。平安時代前期の元慶3年(879年)、勧請されたのが始まりと伝えられている。

その年、出羽国で俘夷が叛き、秋田城や郡院民家が焼かれ、津軽城が襲われた。出羽国の国守藤原朝臣興世は戦いに敗れた。

朝廷は右中弁藤原朝臣保則を出羽国権守に任じ、俘夷を討伐を命じた。保則は北陸道を下向し越後国五泉、つまり当地に至るが、烈風雷雨が連日止まず道を失った。

保則は尊信する八幡大神の加護を祈り、後に快く晴れ、羽州に進発し、戦って勝利した。凱旋途上、当地に石清水八幡宮を勧請して創祀した、という。

特段、式内の由緒は伝えていない。なお、式内社「小布勢神社」の論社は他に、三条市上保内に式内同名神社がある。

当初は宮腰という地に鎮座した。江戸時代前期の慶安2年(1649年)、現在地に遷座し、社殿が造営された。

境内は、南北朝時代の永徳2年(1382年)、長尾憲願によって築かれた五泉城跡。天正11年(1583年)、上杉景勝の重臣甘粕景継が2万石が与えられ五泉城主となった。

甘粕家は上田庄坂戸城の時代から景勝に従い、上杉謙信の跡目争いである御館の乱の際、春日山城で景勝を助けた。

甘粕家は、慶長3年(1598年)、景勝が会津黒川城に移封された際、白石城の城主となった。その後、五泉城は廃城になった。

江戸時代に入り、八幡宮の境内へと整備され、当然あったであろう土塁や堀の跡などは完全に消失した。

合祀されている白山神社が、式内社「宇都良波志神社」の論社。もとは白山川の川辺に鎮座していたが、江戸時代中期の宝暦9年(1759年)、当宮近くに鎮座した。

明治7年(1874年)、当宮の合殿となった。式内社「宇都良波志神社」の論社は他に、当宮自身、市内橋田の中山神社、その境内社である天神社がある。

明治の頃は摂末社20社が並び、老杉が生繁っていたが、昭和3年(1928年)、五泉町大火で一切が焼失した。同年、仮宮を造営して祀った。

昭和9年(1934年)、再建奉賛会を結成したが、大東亜戦争のため中絶。昭和35年(1960)、現在の拝殿を造営。昭和52年(1977年)には本殿が竣工した。

当宮の御祭神は、誉田和気命気長足姫命田心姫命湍津姫命市杵嶋姫命宗像三女神。白山神社と同様、合殿神が下記のように多数祀られている。

白山比売命天児屋根命大名持命少彦名命天香語山命大物主命大山祇命健御名方命・八坂戸女命・天津麻良命石凝姥命表筒男命中筒男命・息長足比売命・神大市比売命・大己貴命・大国主命・少彦名命・八衢比古命・八衢比賣命・久那斗神・神直日神大直日神速秋津比売神・速佐須良比売神・彌都波能売神迦具土神埴安比売神

周囲の神社が合祀されたためと考えられている。当社の拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、妻入、正面1間唐破風向拝付き。本殿は一間社流造、銅板葺き。

境内社として、独立した社殿を構える服部神社(天日鷲命・高幡豊秋津比売命・長白羽命)、古峯神社(大山積神・日本武尊)、天満宮(菅原道真)がある。

他に小祠などとして、青麻社(須佐男尊)、稲荷神社(天宇受売命倉稲魂命猿田彦命)、水神社(水波女命)、薬神社(大穴持神・少彦名神)がある。

境内にある大江廣海歌碑は明治時代に建立されたもの。江戸時代後期の文政13年(1830年)、廣海が詠んだ下記の歌が刻まれており、市指定有形文化財。
桜さく 花の下蔭 分けくれて 逢う人稀に 成りにけるかな
他に境内には、帛帯踊発祥之地の碑が建っている。帛の帯(はくのび)として、市の無形文化財に指定されている。

帛の帯は、五泉独特の踊り。踊り手は男性で、見る人と対面し横一列に並んで一礼する。歌と同時に踊り始め、歌の終わりと同時に一礼して終わる。

踊り手は、白紙一枚の上で踊るとされ、その装束や小道具は紋付きに袴を着け、腰に白扇を指す。起源は江戸時代以前、現在のものは幕末以降に継承されてきたもの。

【ご利益】
厄災除け、地域安全、子宝・安産
五泉八幡宮 新潟県五泉市宮町
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