天武朝に布施宿禰が創祀、伝統のおこない、8月に野神祭・太鼓踊り
布勢立石神社 滋賀県長浜市木之本町赤尾793
[住所]滋賀県長浜市木之本町赤尾793
[電話]0749-82-3606

布勢立石神社(ふせたていしじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町赤尾にある神社。北陸本線の木ノ本駅の南西約4キロ、高槻駅の北西約5キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「布勢立石神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

飛鳥時代、第40代天武天皇6年(677年)、布勢宿禰が祖神として奉祀したのが起源だと伝えられている。

布勢宿禰は、第15代応神天皇の皇孫である意富富杼王の裔。意富富杼王は第26代継体天皇の曽祖父にあたる。妹に第19代允恭天皇の皇后である忍坂大中姫がいる。

社殿の後ろの山地を布勢山と称し、布勢山には巨岩が存在する。幅12尺・高さ30尺・厚さ5尺の立石があり、社名の由来になったと思われる。

布勢山の立石を磐座として、それを拝する所に社殿が設けられたと考えられている。

鎌倉時代末期の正中2年(1325年)6月、坂本日吉大社の御分霊を勧請、大山咋命を奉斎して、同時に神領神戸を賜ったという。

本社の御垂池の下流に山王田、猿喰田、宮用など関連深い小字名が現存している。中世には山王立石権現と称し、通称は山王様として親しまれた。

戦国時代の永正年間(1504年-1521年)、戦乱による兵火に罹り焼失したが、その後再建された。

社蔵の江戸時代中期の正徳年間(1711年-1716年)の古文書には、天台宗養泉寺との関わりが深いことが分かる。現在につながるおこない神事の様子も伝わる。

江戸時代後期の文化年間(1804年-1818年)、社殿の造営が記録されている。この際、興味深い逸話が伝わっている。

文化元年(1804年)6月、氏子らが社殿の造営を相談していた際、社地の広さについて論争となり、一旦は破談になった。

その夜、社地は鳴動し、現社殿の横より多くの土砂が噴出して止まらず、氏子らは大いに畏怖した。

そこで、当時の領主である井伊氏に上申、これはまさに神意として、金一封を献納し、ただちに造営を進めるよう下知したという。

これが現在の社殿である。当時は赤尾・北布施・布施の3ヶ村の総社だったが、後にいずれも分離して、田居前郷のみが護持するようになった。

明治9年(1876年)、村社に列した。明治42年(1909年)、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は4月1日。

2月15日には伝統のおこない神事が行われる。前々日の13日は米かし、前日の14日は餅搗きで、来年度の頭家選定のくじ占いが行われる。

14日はさらにぜんざいによる直会があり、特に頭家祭と呼ばれる。15日は当社で行われるものが頭渡祭、新頭家で行われるものが受頭祭と呼ばれる。

15日当日は鏡餅・まゆ玉・餅わらにつけた餅を当社へ奉納する。さらにこれを次年度の頭家へ持ち行き、頭輪作り・御頭割り(餅切り)を行い、終了する。

8月18日に野神祭・太鼓踊りがある。長さ1丈ほどの2本の御幣を先頭に、大太鼓2人・小太鼓5人・鉦2人・横笛数人で、阿加穂神社も含め、奉納される。

その後、楽器を鳴らして御門を一巡し、涌出山西端に御幣2本を立てて野神を祀る。夜は阿加穂神社裏の丸山上の小祠前の広場で太鼓踊り奉納の後、村中総出の盆踊りを行う。

【ご利益】
地域安全、家内安全、厄災除け
布勢立石神社 滋賀県長浜市木之本町赤尾
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