雄略朝の創祀、洪水で数度の遷座、森可成追い出しの伝承
[住所]長野県長野市松代町西寺尾1006
[電話]-
頤氣神社(いけじんじゃ/いきじんじゃ)は、長野県長野市松代町西寺尾にある神社。信越本線の篠ノ井駅の東約6.5キロ、千曲川を越え、その東岸。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「頤気神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
池郷の地。社伝によれば、第21代雄略天皇3年(458年)正月20日、字池清水に創立された。御祭神は池生神(池生命)。諏訪明神の御子神13柱の1柱。
池郷の地名は、この神名から取られたか、池郷に坐したので池生神と呼ばれたと思われる。ただその後、洪水により当社は一度流失したという。
平安時代初期の大同元年(806年)8月20日、坂上田村麻呂が清水畑の地に再建したという。承和5年(838年)10月27日、源弘臨が造営したという。
しかし、やはり洪水でまた流失したらしく、平安時代末期の養和元年(1181年)6月10日、木曾義仲が字古川添に再建した。
南北朝時代初期の建武元年(1334年)3月20日、現在地へ移転して再建。しかし、戦国時代の永禄4年(1561年)9月10日、川中島の戦いなどの影響で焼失した。
安土桃山時代の慶長元年(1596年)正月20日、氏子により社殿が造営、再興された。この時期、興味深い逸話が伝わっている。
慶長4年(1599年)、森右近大夫忠政が海津城城主となったが、土地の百姓を、父の仇として、臣下の津葉蔵人に命じて苛酷な支配を行った。
森忠政の父は、織田方の森可成。元亀元年(1570年)9月、織田本隊の背後を突いた浅井・朝倉連合軍を防ぎ、奮戦したのが、その混戦の最中討ち死にした。
当地とはあまり縁はなさそうで、どうして父の仇と思ったのかは不詳。ただ忠政は、天正壬午の乱の際に兄である長可を裏切った高坂昌元の一門を探し出して磔にしたのは史実。
住人300人を磔にして殺したという残虐なものだった、と伝わる。そこで住民は、当社に集まり、この主従が他国に移ることを祈願し、毎年正月15日夜、鳥追神事を行った。
津葉蔵人を燕殿(つばくろどん)と呼び替え、「燕殿(ツバクロドン)ホーイホーイ、佐渡島へホーイホーイ」と村内を踊り歩いていたという。
すると、慶長8年(1603年)、この主従は佐渡島へ国替えになった。ただ、史実としては、同年、忠政が加増転封されたのは美作国一国18万6500石の津山藩ではある。
近世には諏訪大明神と称された。江戸時代中期の寛保2年(1742年)8月2日、洪水により神殿が流失、江戸時代後期の文化13年(1816年)8月7日にも被災した。
文政3年(1820年)8月27日、社殿を造営して再興。現本殿は左右脇障子に媼と翁の秀逸な彫刻が残る。明治6年(1873年)4月、村社に列した。
御祭神は池生神。現在までに建御名方命・事代主命・猿田彦命を配祀する。例祭は10月5日に近い日曜日で秋季例大祭。
境内社に、古峯神社・農産神社(養蚕神社)などがある。100メートル続く比較的長い参道も樹木で覆われているが、御神木は拝殿東の大ケヤキ。
樹齢推定600年から700年とされ、幹周り約8.3メートル、樹高約10メートル(各種資料に基づくが、実際はより巨大)の大木。根元で二本が合体している。
他にも、多くの古木があるが、この御神木の他、9本のケヤキは市による保存樹木に指定されている。
なお、式内社「頤氣神社」の論社は他に、当社から北に3キロほど、千曲川の対岸、市内小島田町頤気に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
厄災除け、商売繁盛、交通安全

【関連記事】
・長野県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長野県に鎮座している神社の一覧
[電話]-
頤氣神社(いけじんじゃ/いきじんじゃ)は、長野県長野市松代町西寺尾にある神社。信越本線の篠ノ井駅の東約6.5キロ、千曲川を越え、その東岸。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「頤気神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
池郷の地。社伝によれば、第21代雄略天皇3年(458年)正月20日、字池清水に創立された。御祭神は池生神(池生命)。諏訪明神の御子神13柱の1柱。
池郷の地名は、この神名から取られたか、池郷に坐したので池生神と呼ばれたと思われる。ただその後、洪水により当社は一度流失したという。
平安時代初期の大同元年(806年)8月20日、坂上田村麻呂が清水畑の地に再建したという。承和5年(838年)10月27日、源弘臨が造営したという。
しかし、やはり洪水でまた流失したらしく、平安時代末期の養和元年(1181年)6月10日、木曾義仲が字古川添に再建した。
南北朝時代初期の建武元年(1334年)3月20日、現在地へ移転して再建。しかし、戦国時代の永禄4年(1561年)9月10日、川中島の戦いなどの影響で焼失した。
安土桃山時代の慶長元年(1596年)正月20日、氏子により社殿が造営、再興された。この時期、興味深い逸話が伝わっている。
慶長4年(1599年)、森右近大夫忠政が海津城城主となったが、土地の百姓を、父の仇として、臣下の津葉蔵人に命じて苛酷な支配を行った。
森忠政の父は、織田方の森可成。元亀元年(1570年)9月、織田本隊の背後を突いた浅井・朝倉連合軍を防ぎ、奮戦したのが、その混戦の最中討ち死にした。
当地とはあまり縁はなさそうで、どうして父の仇と思ったのかは不詳。ただ忠政は、天正壬午の乱の際に兄である長可を裏切った高坂昌元の一門を探し出して磔にしたのは史実。
住人300人を磔にして殺したという残虐なものだった、と伝わる。そこで住民は、当社に集まり、この主従が他国に移ることを祈願し、毎年正月15日夜、鳥追神事を行った。
津葉蔵人を燕殿(つばくろどん)と呼び替え、「燕殿(ツバクロドン)ホーイホーイ、佐渡島へホーイホーイ」と村内を踊り歩いていたという。
すると、慶長8年(1603年)、この主従は佐渡島へ国替えになった。ただ、史実としては、同年、忠政が加増転封されたのは美作国一国18万6500石の津山藩ではある。
近世には諏訪大明神と称された。江戸時代中期の寛保2年(1742年)8月2日、洪水により神殿が流失、江戸時代後期の文化13年(1816年)8月7日にも被災した。
文政3年(1820年)8月27日、社殿を造営して再興。現本殿は左右脇障子に媼と翁の秀逸な彫刻が残る。明治6年(1873年)4月、村社に列した。
御祭神は池生神。現在までに建御名方命・事代主命・猿田彦命を配祀する。例祭は10月5日に近い日曜日で秋季例大祭。
境内社に、古峯神社・農産神社(養蚕神社)などがある。100メートル続く比較的長い参道も樹木で覆われているが、御神木は拝殿東の大ケヤキ。
樹齢推定600年から700年とされ、幹周り約8.3メートル、樹高約10メートル(各種資料に基づくが、実際はより巨大)の大木。根元で二本が合体している。
他にも、多くの古木があるが、この御神木の他、9本のケヤキは市による保存樹木に指定されている。
なお、式内社「頤氣神社」の論社は他に、当社から北に3キロほど、千曲川の対岸、市内小島田町頤気に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
厄災除け、商売繁盛、交通安全

【関連記事】
・長野県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長野県に鎮座している神社の一覧

コメント