千曲川西岸、犀川との間、川中島の戦いで荒廃、洪水との戦い
頤氣神社 長野県長野市小島田町頤気沖837
[住所]長野県長野市小島田町頤気沖837
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頤氣神社(いけじんじゃ/いきじんじゃ)は、長野県長野市小島田町頤気にある神社。信越本線の今井駅の東約4.5キロ、千曲川と犀川の間、すぐ東が千曲川。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「頤気神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。御祭神は頤氣神。第10代崇神天皇の御子である豊城入彦命の四世孫、荒田別命のこととも、建御名方命の第五子ともされる池生命のこととも。

伝承によれば、大化3年(647年)、蝦夷地への前進基地として越後の渟足柵・磐舟柵を設けた頃、千曲川沿いの川中島平池郷を開拓し、人々の産業を助けた、という。

荒田別命にしても、池生命にしても、それぞれ生前のことではないはず。御神徳が人々の開拓を助けたというのであれば、治水の神ともされる池生命のことかもしれない。

当社の北東10キロほど、千曲川が犀川と別れる分岐点のさらに先に、池生命を祀る池生神社がある。また、当社の南すぐには、川中島古戦場史跡公園がある。

戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)、川中島の戦いの際に、当社周辺は戦場と化し、社殿などを焼失したため、近傍に仮宮を建て、後年、古社地に再建された。

しかし江戸時代中期の寛保2年(1742年)、千曲川の大洪水により流出。川中島古戦場のさらに先、当社西約1キロの常然寺境内の天神宮を仮宮として祀った。

その後、寛政元年(1789年)になり、再度古社地で再建。しかし、江戸時代後期の享和2年(1802年)、大雨による大洪水によってやはり流出した。

文政8年(1825年)に再建されたのが現在の本殿。境内社として、本殿左に伊勢社が、本殿右に白髪社がある。

主祭神は頤気神だが、現在までに建御名方命・事代主命を配祀する。例祭は10月10日で秋季例祭。

なお、式内社「頤氣神社」の論社は他に、当社から南に3キロほど、千曲川の対岸、市内松代町西寺尾に当社および式内同名神社がある。

【ご利益】
厄災除け、産業振興、事業成功、商売繁盛
頤氣神社 長野県長野市小島田町頤気沖
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