斗女郷の中心「御神渡り」ゆかりか、木曾義仲の時代からの大ケヤキ
[住所]長野県長野市川中島町御厨1622
[電話]-
更級斗女神社(さらしなとめじんじゃ)は、長野県長野市川中島町御厨にある神社。信越本線の今井駅の東約2キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「氷鉇斗売神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。口碑によると、健御名方命が后神の八坂刀売命(八坂刀売神)を誘って国中を巡幸した時、八坂刀売命が滞在した地であるという。
そのため、鎮座の字を八名祇(現 柳)という。また、随従の乙女が滞在した地を、字八乙女という。平安時代の斗女郷の中心地だったと考えられている。
もともと氷鉋村は、上・中・下の三村に分かれ、下の社は氷銫斗賣神社と称し、上・中の社は諏訪社と称していた。
下氷鉋の氷銫斗賣神社の南、中氷鉋に氷鉋諏訪神社という社が存在するが、これが中の諏訪社で、当社が上の諏訪社だっただろうか。
社名から、本来は更級郷の女神を祀った社だったと思われる。ただし、現在は諏訪神である建御名方命が主神で、相殿に八坂刀売命を祀る。
氷鉇(氷鉋)の名から、建御名方命が八坂刀売命のもとへ、氷を鉋(かんな)のように削って諏訪湖を渡る「御神渡り」から、八坂刀売命が主神だった可能性がある。
なお、式内社「氷鉇斗売神社」の論社は他に、先の下の社の氷銫斗賣神社(氷鉋斗賣神社)がある。
社殿西側に御神木の欅(ケヤキ)がある。樹高25メートル以上、周囲11メートル。推定樹齢1200年以上だという。
平安時代末期、木曾義仲が以仁王の令旨を奉じて平氏追討の際、火を放ち、ほとんどが焼失した中で、この大樹が1本残り、村人がこの大樹を基に再興したと伝えられる。
ただ、当社本殿の左手には八幡宮(誉田別命)がある。もともとは当社の西南の字八幡に鎮座していたもので、明治期に当社境内に遷座した。
この八幡宮、養和元年(1181年)に横田河原で戦勝した木曾義仲が社前で勝鬨をあげたので、勝鬨八幡社と呼ばれるようになったという。
木曾義仲(源義仲)は、当社には火を放ち、近くの八幡宮では勝鬨をあげた、ということになる。何か意味があったのだろうか。
この大ケヤキの他、13本のケヤキの大樹があり、いずれも保存樹林として指定されている。社殿の裏側と参道両側のケヤキが特に大きい。
また、社殿の裏側には檜(ヒノキ)の巨樹群もある。樹高は10メートル、周囲1メートル程度で、いずれも樹齢150年程度だが、11本ほど確認されている。
江戸時代後期の文化12年(1815年)、吉田家より現社号が許可された。明治6年(1873年)4月、村社に列した。例祭は10月1日。
八幡宮の他、境内社に、白山社(伊邪那岐神・伊邪那美神)、養蚕社(農産社。保食神)、琴平社(金山彦神)、天神社(天満宮。菅原道真)がある。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、子宝・安産

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更級斗女神社(さらしなとめじんじゃ)は、長野県長野市川中島町御厨にある神社。信越本線の今井駅の東約2キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「氷鉇斗売神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。口碑によると、健御名方命が后神の八坂刀売命(八坂刀売神)を誘って国中を巡幸した時、八坂刀売命が滞在した地であるという。
そのため、鎮座の字を八名祇(現 柳)という。また、随従の乙女が滞在した地を、字八乙女という。平安時代の斗女郷の中心地だったと考えられている。
もともと氷鉋村は、上・中・下の三村に分かれ、下の社は氷銫斗賣神社と称し、上・中の社は諏訪社と称していた。
下氷鉋の氷銫斗賣神社の南、中氷鉋に氷鉋諏訪神社という社が存在するが、これが中の諏訪社で、当社が上の諏訪社だっただろうか。
社名から、本来は更級郷の女神を祀った社だったと思われる。ただし、現在は諏訪神である建御名方命が主神で、相殿に八坂刀売命を祀る。
氷鉇(氷鉋)の名から、建御名方命が八坂刀売命のもとへ、氷を鉋(かんな)のように削って諏訪湖を渡る「御神渡り」から、八坂刀売命が主神だった可能性がある。
なお、式内社「氷鉇斗売神社」の論社は他に、先の下の社の氷銫斗賣神社(氷鉋斗賣神社)がある。
社殿西側に御神木の欅(ケヤキ)がある。樹高25メートル以上、周囲11メートル。推定樹齢1200年以上だという。
平安時代末期、木曾義仲が以仁王の令旨を奉じて平氏追討の際、火を放ち、ほとんどが焼失した中で、この大樹が1本残り、村人がこの大樹を基に再興したと伝えられる。
ただ、当社本殿の左手には八幡宮(誉田別命)がある。もともとは当社の西南の字八幡に鎮座していたもので、明治期に当社境内に遷座した。
この八幡宮、養和元年(1181年)に横田河原で戦勝した木曾義仲が社前で勝鬨をあげたので、勝鬨八幡社と呼ばれるようになったという。
木曾義仲(源義仲)は、当社には火を放ち、近くの八幡宮では勝鬨をあげた、ということになる。何か意味があったのだろうか。
この大ケヤキの他、13本のケヤキの大樹があり、いずれも保存樹林として指定されている。社殿の裏側と参道両側のケヤキが特に大きい。
また、社殿の裏側には檜(ヒノキ)の巨樹群もある。樹高は10メートル、周囲1メートル程度で、いずれも樹齢150年程度だが、11本ほど確認されている。
江戸時代後期の文化12年(1815年)、吉田家より現社号が許可された。明治6年(1873年)4月、村社に列した。例祭は10月1日。
八幡宮の他、境内社に、白山社(伊邪那岐神・伊邪那美神)、養蚕社(農産社。保食神)、琴平社(金山彦神)、天神社(天満宮。菅原道真)がある。
【ご利益】
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コメント
コメント一覧 (1)
落ち葉の処理たいへんだわー 夏は涼しすぎるでしょうねーー
神社の年間祭事を拝殿際に作ってほしいです。
年間5回は参拝に行ってます、聖地の参道見事1!