奈良期に越中射水から布施氏の祖と伊勢を勧請した古社
[住所]長野県長野市篠ノ井山布施1
[電話]-
布制神社(ふせいじんじゃ)は、長野県長野市篠ノ井山布施にある神社。信越本線の篠ノ井駅の北西約7キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「布制神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によると、奈良時代の神護景雲2年(768年)、高橋朝臣国是之が、更級郡の大領に任じられ、下総国結城布制郷の人民を従えて当地に移住し、土地を開拓した。
その後、宝亀8年(777年)、越中射水から布施氏の祖である大彦命を勧請、奉斎したというのが当社の起源である。勧請元は、富山県氷見市の布勢神社か。
また、『信州宝鑑』によれば、第49代光仁天皇(在位:770年-781年)の御宇、宝祚長久国家安全を祈願して、伊勢の神宮(伊勢神宮)の御分霊(天照大神)を勧請した。
平安時代前期の安和2年(969年)、佐久の望月氏が移り住み、氏を布施に改めて、布施郷を領治し、以後、当社は神明宮と称するようになった。
江戸時代後期の文化7年(1810年)、吉田家に請願して社号の許可を得、現社号に改称した。
明治6年(1873年)4月、郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月4日で、秋季大祭。
社殿の左手に、御神木が祀られ、その根本に、金刀比羅社など境内社と思われる社殿や石祠がある。
当社近くには、樹齢推定約100年、下部はヒヨクヒバ、上部はサワラという奇形木で、先祖返りという珍しい現象の見られる木「サワラとヒヨクヒバのキメラ」がある。
なお、式内社「布制神社」の論社は他に、市内の篠ノ井石川と篠ノ井布施五明に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、開運招福

【関連記事】
・長野県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長野県に鎮座している神社の一覧
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布制神社(ふせいじんじゃ)は、長野県長野市篠ノ井山布施にある神社。信越本線の篠ノ井駅の北西約7キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「布制神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によると、奈良時代の神護景雲2年(768年)、高橋朝臣国是之が、更級郡の大領に任じられ、下総国結城布制郷の人民を従えて当地に移住し、土地を開拓した。
その後、宝亀8年(777年)、越中射水から布施氏の祖である大彦命を勧請、奉斎したというのが当社の起源である。勧請元は、富山県氷見市の布勢神社か。
また、『信州宝鑑』によれば、第49代光仁天皇(在位:770年-781年)の御宇、宝祚長久国家安全を祈願して、伊勢の神宮(伊勢神宮)の御分霊(天照大神)を勧請した。
平安時代前期の安和2年(969年)、佐久の望月氏が移り住み、氏を布施に改めて、布施郷を領治し、以後、当社は神明宮と称するようになった。
江戸時代後期の文化7年(1810年)、吉田家に請願して社号の許可を得、現社号に改称した。
明治6年(1873年)4月、郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月4日で、秋季大祭。
社殿の左手に、御神木が祀られ、その根本に、金刀比羅社など境内社と思われる社殿や石祠がある。
当社近くには、樹齢推定約100年、下部はヒヨクヒバ、上部はサワラという奇形木で、先祖返りという珍しい現象の見られる木「サワラとヒヨクヒバのキメラ」がある。
なお、式内社「布制神社」の論社は他に、市内の篠ノ井石川と篠ノ井布施五明に当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、開運招福

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