笠原牧、笠原の天神さん、夜間瀬川、江戸期に式内訴訟
笠原神社 長野県中野市大字笠原408
[住所]長野県中野市大字笠原408
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笠原神社(かさはらじんじゃ)は、長野県中野市笠原にある神社。千曲川の支流、夜間瀬川の南岸。長電長野線の信濃竹原駅の北西約4.2キロ。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 高井郡「笠原神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

創建年代は不詳。笠原牧の牧官、笠原氏が京都五条天神から国作りの神である少彦名命を勧請して字天神前に創建した。

天つ神を祀るところ から笠原の天神さんと呼ばれ、崇敬されてきた。字天神前は現社地の北東300メートルほどの地。

『延喜式』には神名帳に記載されるほか、笠原牧も記載されている。以後盛大な官祭が行われたと伝わり、今も火打田、的場などの字地が残る。

鎌倉時代初期の治承4年(1180年)、笠原の住人である笠原平五頼直は、源平の戦いで平家方の領袖として宇治川、市原で戦った。

しかし翌年、横田河原戦で敗れ、出羽国へ敗走した。同族の笠原行連は後に源頼朝の御家人となり、所領が安堵された。

室町時代の応永21年(1405年)、下総国本誓寺七世性順は、笠原氏を頼り、笠原字散法院に移住、寺号を笠原本誓寺と称した。後に当社の神宮寺となった。

宝徳元年(1449年)、八世性善の代、本願寺蓮如上人が逗留し、直筆の本誓寺の額が寄進された。

戦国時代の天文19年(1550年)、甲越の戦火を避け、本誓寺十世超賢は当社を笠原村に託し、寺宝を携え、加賀小山御坊へ移った。

天文21年(1552年)、超賢は、上杉謙信の懇請を受け、加賀・越前の一向一揆を諭し 上洛の通路を開かせた。

翌天文22年(1553年)には謙信によって越後高田に笠原本誓寺が再建された。蓮如上人直筆の本誓寺の額は、今も寺宝として現存している。

江戸時代前期の寛文11年(1671年)、度重なる夜間瀬川の大洪水により、当社は村落や耕地とともに流出した。以後、祭祀を若宮八幡宮神官に託した。

江戸時代中期の寛延3年(1750年)、若宮八幡宮は、京都吉田家に出願し八幡宮に「笠原神社」の額を掲げた。笠原村では、これを江戸寺社奉行所に出訴した。

宝暦2年(1752年)、江戸寺社奉行三井下総守の決裁により、笠原村側の勝訴となった。江戸時代後期の文化12年(1815年)、現在地に本殿が再建された。

6年後の文政4年(1821年)には拝殿も再建された。文政5年(1822年)、京都吉田家に式内社の出願が行われ、翌年には吉田家より祝詞、神宣状、式内社の額が下付された。

天保13年(1842年)、本殿の雨覆いが再建され、嘉永元年(1848年)には祝詞殿が再建された。明治6年(1873年)、近郷9ヶ村の郷社に列した。

明治40年(1907年)4月、神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は9月29日。 秋季例大祭で、夜宮として、宮入と太鼓の奉納が行われる。

【ご利益】
病気平癒、産業振興、事業成功、厄災除け
笠原神社 長野県中野市大字笠原
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