源義家が奉祀した神功皇后ゆかりの霊石、5月に善光寺平春の三大祭
[住所]長野県長野市若槻東条字蚊里田1313
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蚊里田八幡宮(かりたはちまんぐう)は、長野県長野市若槻東条字蚊里田にある神社。近代社格では郷社。蚊里田神社とも。北長野駅の北約3キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。

市北部の三登山(みとやま)の中腹、蚊里田山の南麓に境内地を有し、本殿、祝詞殿、神饌殿、拝殿、神楽殿、神輿庫、社務所などを配置している。

社伝によれば、当宮の御神体である霊石は、九州福岡県怡土郡蚊田の里から運ばれてきた鎮懐石(ちんかいせき)と伝えられている。

神功皇后が三韓征伐の折、皇子で後の應神天皇の誕生を遅らせるため、腰に付けた霊石だという。

この霊石を、平安時代後期の武将、源義家(1039年-1106年)が陸奥征伐に陣中の守護神として奉持し、戦が終って後に、子の義隆に授けた。

平安時代末期の仁平年間(1151年-1154年)、現在の本殿裏山をゆかりの地、九州蚊田の里の地名を取って蚊里田山(かりたさん)と称し、その麓に霊石を奉斎したのが起源。

鎮懐石は「お産を遅らせるために身体につける石」で、腹部をこすったり、腰に下げたり、または陰部にはさむというようなこともあったと伝えられている。

また、生殖に関連する石であり、古代において農作物の豊作を祈願して神に奉げることもあった。こうしたことから鎮懐石は安産、子宝、また性病の神ともなった。

神功皇后の石に関しては、『古事記』や他の古書にも記載がある。それにかかわる伝承や、実物も西日本中心に全国に伝わる。当宮の鎮懐石は男根石と伝えられている。

治承4年(1180年)、義隆の子である頼隆が、源頼朝から現在の若槻東条、浅川東条、押田、旧若槻村の大部分を含めた若槻庄を与えられた。

そして、鎌倉時代初期の文治元年(1185年)、頼隆が地頭に任じられると、頼朝の命もあって、源氏の守護神の八幡を本格的に祀るようになった。

御祭神は、誉田別尊・足仲彦尊・息長足姫尊。蚊里田さんとして親しまれている。例祭は秋季例祭が9月最終日曜日、春季例祭が5月5日。

春季例祭はもとは5月8日だったが、当宮創建以来、御神体である鎮懐石は桐の箱に納めて、お唐櫃に納めて神社に移し、宮司が奥社に安置し厳かに神事を行ってきている。

古文書よると、幕末の文久2年(1862年)3月16日、善光寺大本願の上人が当宮を参拝、その年の春季例大祭には本殿に紫縮緬の幕と高張提灯一対を奉納した。

以後破損の折には新品の奉納があった。そのため、毎年5月の大祭には大本願の参拝があり、大祭はお八日(ようか)と称し、親しまれている。

正覚院の観音まつり、西厳寺の蓮如忌とともに、善光寺平一円の春の三大祭の一つに数えられ、境内にある土俵で行われる奉納相撲は150年以上の歴史を数える。

当社に伝わる七反大幟(ななたんのおおのぼり)は佐久間象山の筆で、幕末の嘉永7年(1854年)のもの。筆代わりに使用した箒とともに社宝となっている。
威稜扶宇宙(いりょううちゅうをたすけ)
恩眷煦生霊(おんけんせいれいをくす) 意味:
八幡大神の御威光で宇宙が安定している その恵みが生物の上に行き亘っている
境内には、桜井土音(1887年-1964年)の句碑がある。土音は大正期に活躍した俳人で旧若槻村の出身。『ホトトギス』に寄稿、作風から「土の俳人」と称された。

当社では他に、市内吉の諏訪神社、上野の粟野神社、三千寺の三登山神社、稲田神社などを兼務している。

【ご利益】
子宝・安産、五穀豊穣、身体壮健、地域安全(公式HP
蚊里田八幡宮 長野県長野市若槻東条
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