国史見在社の薄川の神、中世以来の御柱と近世以来のお船
[住所]長野県松本市大字里山辺273
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須須岐水神社(すすきがわじんじゃ、須々岐水神社)は、長野県松本市里山辺にある神社。里山辺須々岐水神社とも。松本駅の西約4.2キロ。薄川の北。御朱印の有無は不明。

創祀年代は不詳。この地の開拓の祖神として、薄川の神を祀り、山家郷民の信仰を得て、現在に及んでいる。

その創祀は、薄川流域に住民が定着し、農業が始められたころと推定される。平安時代初期、信濃国府の筑摩郡移転後、山家郷開発の祖となった。

第50代桓武天皇の延暦18年(799年)12月、朝廷により賜姓を受け、外従六位下に叙せられた須々岐氏が奉祀するところとなった。

『日本後紀』には、高句麗から渡来した信濃国人卦婁真老(外従六位下)は「須々岐」の姓を与えられた、とある。

この「須々岐」という姓が社名となり、社名の「須々岐水」は薄川からきていると考えられている。

『日本三代実録』貞観9年(867年)、梓水神とともに、正六位上から従五位下に昇叙された国史見在社である。なお、千曲市の当社と同字異音の神社も国史見候補である。

中世、鎌倉時代になると、諏訪上社系の神氏が山家氏となり、地頭職として山辺郷を領知するようになった。

そこで、御祭神は建御名方命素盞嗚尊に改められたという。また、室町時代の長禄2年(1458年)の墨書銘を持つ狛犬が今に伝わる。

この頃から、卯年と酉年には、諏訪大社同様、御柱祭が行われるようになった。いわゆる「里山辺須々岐水神社の御柱祭り」である。市の重要無形民俗文化財。

近世、薄宮大明神とも称され、山家氏はじめ松本歴代城主の崇敬が篤く、神領などの寄進が相次いだ。慶長(1596年-1615年)の検地では、薄宮は5石が免じられている。

江戸時代前期の寛永年間(1624年-1645年)、城主戸田氏より、一・二・三の鳥居が寄進され、現存する木造大鳥居はその三の鳥居であると伝えられる。

『信府統記』「松本領諸社記」には、「山奥の大明神平に降りた神が、笹の葉に乗って薄川をくだり薄畑に着き、現在の社地に移った」との伝承が記録されている。

江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)、逐次お船が作られるようになり、さらに後期の天保年間(1831年-1845年)、諏訪の名匠立川一門による見事なお船が完成。

今日見る9艘の優雅なお船祭りが行われるようになり、定着した。お船祭りや、その彫刻が施されたお船は県宝に指定されている。

お船祭りは現在、毎年5月4日・5日に行われている。九つの町会が持っている「お船」を境内まで曳く。

この「お船」は、一般には山車(だし)と呼ばれ、曳き山・屋台・舞台などと呼称することもあるもので、当社のみで特に「お船」と呼ぶ。

「お船」の大きさはそれぞれ異なるが、およそ本体の高さは約5メートル、横幅約3メートル、奥行き約4メートルという巨大なもの。

当然重量感があるため、お船の動きやそれを担ぐ青年の勇ましい姿に注目が集まる。山辺の里に田植えの始まりを告げ、秋の豊作を祈願する伝統行事である。

【ご利益】
地域安全、五穀豊穣、厄災除け、身体壮健
須須岐水神社 長野県松本市里山辺
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