もとは式内・祝神社、須々岐水神も国史見、7月茅の輪まつり
須須岐水神社 長野県千曲市屋代1851
[住所]長野県千曲市屋代1851
[電話]026-274-3811

須須岐水神社(すすきみずじんじゃ、須々岐水神社)は、長野県千曲市屋代にある神社。千曲川東岸、しなの鉄道線の屋代駅の北約1キロ。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 埴科郡「祝神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

祝神社は現在、境内社として祀られている。祝神社は、社伝によれば、飛鳥時代の白鳳2年(651年)、一重山の腰惣に創建されたという。

『埴科郡志』によれば、当社は、中世には国照神社と称し、また、日吉神を合祀した。そのため、「山王さん」とも呼ばれるようになった。

そうして、当社は式内の由緒を忘れ、宝暦元年(1751年)、式内社「祝神社」の名を、松代の諏訪神社に許可した。これが現在の長野市松代にある祝神社である。

当社、あるいはいずれのかの時期に境内社になったものか、当社の祝神社も一貫して存在し続けていた。

しかし明治42年(1909年)、事情があり、一重山北端の尾根の東の地に遷座した。しかし当地に永久の奉祀を願い、平成11年(1999年)5月22日、再び当社境内に鎮座した。

祝神社のみならず、須須岐水神社そのものの由緒も古い。創祀年代は不詳だが、『日本三代実録』貞観9年(867年)に「須々岐水神並従五位下」とある。

つまり国史見在社である。ただし、この「須々岐水神」は松本市にある当社と同字異音の神社のことだともされている。

『日本三代実録』原文も、「正六位上梓水神、須々岐水神並從五位下」とあり、梓水神との関連を強く感じさせるため、松本市の須々岐水神社の可能性が高い。

また、貞観年間(859年-877年)、金刺人正長は、当郷に居住した際、洪水による里民の困窮に心を痛め、常に崇敬している日吉の神を合祀した。

そのためか、古来水神として崇敬されて、周辺18ヶ村の総社だった。山王社と呼ばれたが、天明元年(1781年)、現社号に改称した。

幕末の嘉永5年(1852年)、立川和四郎富棟、富昌の親子の手によって、現在の本殿が造営された。

明治期には、屋代、埴生、杭瀬下、雨宮縣、森倉科の6町村の水神として崇敬されたという。明治14年(1881年)、郷社に昇格した。

御祭神は、速秋津彦命速秋津姫命罔像女命など、水に関わる神々が主だったと思われるが、現在は、大国主命・生魂命・事代主命・罔像女命となっている。

配祀に、豊玉姫命・速秋津彦命・速秋津姫命・少彦名命保食命国常立命という形になっている。

境内社の祝神社の御祭神は、建五百建命(科野国造)・建御名方富命(諏訪上社)・南方刀美命(諏訪下社)。

例祭は10月第1日曜日で秋季例祭。5月には春季例大祭として屋代春祭り。7月31日には茅の輪まつりがある。

茅の輪まつりに際しては、直径2メートルほどの茅を束ねて作った環状の「茅の輪」が設置される。その輪をくぐることで体が清められるとされる。

子供は丈夫に育ち、頭が良くなるとされている。くぐった印として男の子は墨で、女の子は朱墨で額に印をつけてもらう。

二年参りの風習が残る。12月31日大晦日の夜に大払祭、空けて元旦に元旦祭の行事が行われる。1年の穢れを祓い、新しい年を迎える年越しの祭り。

二年参りの参拝をすれば、御神酒・甘酒・飴のふるまいがある。当日は、絵馬・おみくじ・お札なども用意されている。

【ご利益】
五穀豊穣、厄災除け、無病息災、健康長寿
須須岐水神社 長野県千曲市屋代
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