江戸初期に諏訪二神を配祀、江戸中期に改称、江戸後期社殿
[住所]長野県長野市松代町松代567
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祝神社(はふりじんじゃ/ほうりじんじゃ)は、長野県長野市松代町松代にある神社。松代城跡のすぐ南には真田公園があり、その東近くに鎮座する。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 埴科郡「祝神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。口碑によれば、上古、英多真人の祖が、英多郷開拓の時に勧請したという。もとは、本宮が東2キロほどの東条山の山上にあった。

当地はその里宮だったが、後に山上のものは当地に合祀されたという。山上の旧跡は「祝畑」といい、太刀や土器が出土している。

戦国時代の天文22年(1553年)、武田氏が松代城を築造した時、海津城二の丸の付近にあった諏訪二神を城内の鎮守とした。

この諏訪二神は、江戸時代になった慶長13年(1608年)、当社に合祀され、現在も配祀されている。以来、当社は諏訪大明神と呼ばれるようになった。

江戸時代中期の享保2年(1717年)、松代大火の際に類焼し、享保12年(1727年)になり、社殿が改築、再建された。

宝暦元年(1751年)、現社号に改称した。『埴科郡志』によれば、屋代の須須岐水神社が本来の式内社「祝神社」だったという。

ただ須々岐水神社は、中世には国照神社と称し、また、日吉神を合祀した。そのため、「山王さん」とも呼ばれるようになった。

そうして、須々岐水神社は式内の由緒を忘れ、式内社「祝神社」の名を、松代の諏訪神社と呼ばれた当社に許可した、という。

天明8年(1788年)、河内屋火事に再び類焼した。江戸時代後期の文化9年(1812年)、造営の記録が残る。

これが現在の本殿・拝殿である。本殿は銅板葺きの二間社流造で、縁および浜床を高くとり、均整の取れた外観を示している。

拝殿は入母屋造、桟瓦葺、妻入、正面向拝は唐破風。内部は二室で奥間は二段床が高い、正面一間を吹き放し、三方に縁を回す。

本殿・拝殿ともに江戸時代後期様式で、本殿の脇障子に唐獅子を表し、木鼻の象など、各所に彫刻が華やかにほどこされている。

明治6年(1873年)、村社に列し、明治15年(1882年)には郷社に昇格した。御祭神は生魂命。建御名方命・八坂斗売命を配祀する。例祭は10月2日で例大祭。

境内社に八幡社・天神社と西宮神社(恵比須社)、稲荷社、猿田彦社があり、池の中には宗方社(宗像社)が祀られている。

【ご利益】
地域安全、学業・受験合格、事業成功、商売繁盛
祝神社 長野県長野市松代町松代
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