神功皇后の三韓征伐時に諏訪を皇足穂ノ宮に勧請、江戸前期本殿
[住所]長野県長野市中條2270
[電話]-
皇足穂命神社諏訪社合殿(すめたるほのみことじんじゃすわのしゃごおでん)は、長野県長野市中條にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 水内郡「白玉足穂命神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
長野市中条支所の南、約1キロ。犀川の西岸で、白馬長野有料道路の北、県道485号線を北進する。皇足穂命神社を東宮、諏訪社を西宮と称し、今も二殿並んで鎮座している。
創祀年代は不詳。一説に諏訪社は、神功皇后が三韓出征の際、信濃国一宮である諏訪大社へ御幸、出仕の神官が御神木を移植し、皇足穂ノ宮に並べて祀られたものという。
つまり、先に皇足穂ノ宮があり、諏訪社が後に勧請された。昔は鎮座地付近の地名を足穂宮沖といい、2キロほどの地に保高という地名が残っている。
江戸時代まで、当地に穂田と称する神田があったようで、長らく皇足穂命神社が主だった痕跡が残る。ただし、いずれかの時期に諏訪社が主となったようだ。
戦国時代の社殿は天文2年(1533年)8月、地頭春日淡路守によって再建されたが、江戸時代前期の寛文5年(1665年)5月に焼失。後、寛文10年(1670年)に再建された。
この寛文10年再建のものが現在の東宮と西宮の本殿で、一問社流造、母屋は円柱で、地長押・内法長押を入れ、頭貫上に台輪をおき、組物は出三斗とする。
妻飾は縦横式とし、屋根はこけら葺一軒で、三方に切目縁を廻し、正面に舞良戸式両開扉をつり、他は横板張とする。
向拝は角柱上に出三斗を置き、正面に本蟇股を入れ、母屋と海老虹梁で繋ぐ。本鼻など細部によく寛文ごろの特徴を示す建造物で、市の文化財に指定されている。
諏訪大明神と親しまれたようだが、江戸時代中期の安永2年(1773年)、吉田家により、皇足穂命神社の神号の神宣を受けた。
当時、東宮(皇足穂命神社)は本殿のみで、西宮(諏訪社)には祝詞殿を兼ねた拝殿があった。しかし、江戸時代後期の弘化4年(1847年)、大地震により拝殿が倒壊した。
幕末の安政4年(1857年)、再建された。この時、今のように中央に拝殿が配されたか。明治6年(1873年)4月、郷社に列した。
『明治神社誌料』によれば、当時の今栄村、旧青木、奈良井、伊折地、京原、千納の6ヶ村の産土神である。
御祭神は、皇足穂命神社が倉稲魂命で、誉田別命・気長足姫命を配祀する。諏訪社が健御名方命・事代主命。
他に、月読尊・天照大御神・健御名方命・軻遇突智命・金山彦命・三峰大神・十二天白神・大物主命・手力雄命・大山祇命・伊弉册命を合祀する。
例祭は10月9日。10月下旬とする資料も。3年に一度の式年例大祭が開催される。奉納花火大会、余興大会、稚児行列などが行われる。
中条虫倉太鼓が、余興大会での演奏と、稚児行列の先導として参加する。
境内社に、伊勢社、八坂社、子安荒神(奧津日子命・奧津比売命)がある。戦国時代、坂城城主村上義清の奥方である加治の方が難産だった。
そこで、子安荒神に祈願したところ、男子として源吾(国清)を安産でもうけたことから、長野市村山の子安荒神を中条平一円に勧請分祀されたもの。
村山の子安荒神が西向きで、当社の子安荒神は東向き。この間の中条平一帯の子宝・安産に霊験があると伝えられている。
境内には筆塚がある、入口の鳥居の脇の忠魂碑は、信州が生んだ軍人にして探険家の福島安正の筆によるもの。
なお、式内社「白玉足穂命神社」の論社は他に、いずれも市内の飯縄神社、皇足穂命神社、皇足穂吉田大御神宮がある。
【ご利益】
五穀豊穣、無病息災、地域安全、安産

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皇足穂命神社諏訪社合殿(すめたるほのみことじんじゃすわのしゃごおでん)は、長野県長野市中條にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 水内郡「白玉足穂命神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
長野市中条支所の南、約1キロ。犀川の西岸で、白馬長野有料道路の北、県道485号線を北進する。皇足穂命神社を東宮、諏訪社を西宮と称し、今も二殿並んで鎮座している。
創祀年代は不詳。一説に諏訪社は、神功皇后が三韓出征の際、信濃国一宮である諏訪大社へ御幸、出仕の神官が御神木を移植し、皇足穂ノ宮に並べて祀られたものという。
つまり、先に皇足穂ノ宮があり、諏訪社が後に勧請された。昔は鎮座地付近の地名を足穂宮沖といい、2キロほどの地に保高という地名が残っている。
江戸時代まで、当地に穂田と称する神田があったようで、長らく皇足穂命神社が主だった痕跡が残る。ただし、いずれかの時期に諏訪社が主となったようだ。
戦国時代の社殿は天文2年(1533年)8月、地頭春日淡路守によって再建されたが、江戸時代前期の寛文5年(1665年)5月に焼失。後、寛文10年(1670年)に再建された。
この寛文10年再建のものが現在の東宮と西宮の本殿で、一問社流造、母屋は円柱で、地長押・内法長押を入れ、頭貫上に台輪をおき、組物は出三斗とする。
妻飾は縦横式とし、屋根はこけら葺一軒で、三方に切目縁を廻し、正面に舞良戸式両開扉をつり、他は横板張とする。
向拝は角柱上に出三斗を置き、正面に本蟇股を入れ、母屋と海老虹梁で繋ぐ。本鼻など細部によく寛文ごろの特徴を示す建造物で、市の文化財に指定されている。
諏訪大明神と親しまれたようだが、江戸時代中期の安永2年(1773年)、吉田家により、皇足穂命神社の神号の神宣を受けた。
当時、東宮(皇足穂命神社)は本殿のみで、西宮(諏訪社)には祝詞殿を兼ねた拝殿があった。しかし、江戸時代後期の弘化4年(1847年)、大地震により拝殿が倒壊した。
幕末の安政4年(1857年)、再建された。この時、今のように中央に拝殿が配されたか。明治6年(1873年)4月、郷社に列した。
『明治神社誌料』によれば、当時の今栄村、旧青木、奈良井、伊折地、京原、千納の6ヶ村の産土神である。
御祭神は、皇足穂命神社が倉稲魂命で、誉田別命・気長足姫命を配祀する。諏訪社が健御名方命・事代主命。
他に、月読尊・天照大御神・健御名方命・軻遇突智命・金山彦命・三峰大神・十二天白神・大物主命・手力雄命・大山祇命・伊弉册命を合祀する。
例祭は10月9日。10月下旬とする資料も。3年に一度の式年例大祭が開催される。奉納花火大会、余興大会、稚児行列などが行われる。
中条虫倉太鼓が、余興大会での演奏と、稚児行列の先導として参加する。
境内社に、伊勢社、八坂社、子安荒神(奧津日子命・奧津比売命)がある。戦国時代、坂城城主村上義清の奥方である加治の方が難産だった。
そこで、子安荒神に祈願したところ、男子として源吾(国清)を安産でもうけたことから、長野市村山の子安荒神を中条平一円に勧請分祀されたもの。
村山の子安荒神が西向きで、当社の子安荒神は東向き。この間の中条平一帯の子宝・安産に霊験があると伝えられている。
境内には筆塚がある、入口の鳥居の脇の忠魂碑は、信州が生んだ軍人にして探険家の福島安正の筆によるもの。
なお、式内社「白玉足穂命神社」の論社は他に、いずれも市内の飯縄神社、皇足穂命神社、皇足穂吉田大御神宮がある。
【ご利益】
五穀豊穣、無病息災、地域安全、安産

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