「さらしな」、宗良親王の歌と逆修塚、佐久間象山の書、カタクリ
[住所]長野県千曲市若宮2-イ
[電話]026-275-4650

佐良志奈神社(さらしなじんじゃ)は、長野県千曲市若宮にある神社。しなの鉄道線の千曲駅の南約3キロ。千曲川沿いの西岸。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 更級郡「佐良志奈神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

社伝によれば、第19代允恭天皇の皇子である黒彦王大鷦鷯命の御神霊を勧請し、冠着山支嶺(八王子山)に祀ったのが起源。

漢字は違うが、郡名を称する神社である。ちなみに、「さらしな」の「しな」は信濃(しなの)が由来だという。

平安時代前期の仁和3年(887年)、地震により現在の八王子組(当時千曲河原)に崩落したため、麓にあった若宮八幡宮に合祀した。

南北朝時代前期の正平年間(1346年-1370年)、第96代後醍醐天皇の皇子である宗良親王が潜居の折、暫時御所とした。宗良親王の『李花集』に下記の歌が収録されている。
佐良科の里にすみ侍りしかば、月のいとおもしろくて、秋ことにおもひやられしことなど、思ひ出られければ、もろともに をばすて山を超えぬとは、都にかたれ 更級の月
現在も本殿後方に、宝筐印塔がある。宗良親王に従って戦に出た人々が、死ぬ前に自分たちの墓として立てたもので、「逆修塚(逆襲塚)」と呼ばれる。

逆襲塚の台石には、『信州若宮永和二年丙辰六月十五日契約従衆四五人』と刻んである。永和2年は1376年。

室町時代の宝徳2年(1450年)、本殿が火災のため焼失し、古文書などはそれ以後のものしか現存していない。

氏子は若宮組三組と呼ばれ、黒彦・若桜宮(現 若宮)・柴原(現 芝原)。中でも黒彦組は戸数が多く、市なども立って栄えていたという。

しかし、戦国時代の天文11年(1542年)、安土桃山時代の慶長2年(1597年)、江戸時代初期の慶長16年(1612年)など度々の水害に遭い、千曲川の両岸に移住・分村した。

明治15年(1882年)10月7日、郷社に列した。御祭神は、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功天皇)、大鷦鷯命(仁徳天皇)。例祭は9月23日。御神像は四体伝わっている。一体は御神名不明。

境内社に、高良社・秋葉社・天神社・稲荷社がある。当社の旧地だろうか、八王子の地に摂社として八王子社(国之狭槌命)がある。

当社標は、正面社号が嵯峨実愛の書で、側面は佐久間象山の撰書である。幕末の文久元年(1861年)の建立。

当社神主の松田直友は京都において正親町三条大納言の知遇を得、この書を戴くとともに郷の姑柳原夫人より「更級の里」の歌を賜り、社頭の栄として建立したものだという。

象山は直友と親交があり、度々この地を訪れている。文字は謹厳な隷書体で社蔵の大幡とともに象山の名筆として知られる。
月のみか つゆしもしぐれ 雪までに さらしきらせる さらしなの里
当社境内は天然のカタクリの群生地でもある。カタクリは山野に生える多年草で、早春になると他の植物に先駆けて芽を出し、3月下旬から4月中旬にかけ、花を咲かせる。

当社および付近では、4月初旬の第1土・日曜日なの度に、「八王子山のカタクリまつり」「春めいた八王子山で自然観察」などの催しが行われる。

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佐良志奈神社 長野県千曲市若宮
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