阿智駅の守護神、阿智神社・戸隠神社とも関係、桃山期に新羅明神
[住所]長野県下伊那郡阿智村駒場
[電話]0265-43-3069
安布知神社(あふちじんじゃ)は、長野県下伊那郡阿智村駒場にある神社。阿智村役の北約650メートル、国道153を超え、中央自動車道の手前。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 伊那郡「阿智神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によれば、第16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現れ、山の枯木のもとを掘れとのお告げにより掘ったところ、八花鏡を見出した。
この鏡を御霊代として祠を建てて祀ったのが当社の起源だという。御祭神は天思兼命。
『先代旧事本紀』によれば、天思兼命とその子天表春命はともに信濃国に天降り、阿智祝部らの祖となったとある。
昼神の阿智神社同様、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した、秦氏あるいは阿智使主一族などの帰化人系により奉祀された天孫系の神社であると考えられる。
当社自身、阿智神社の御祭神と同一で、両社は古くより密接な関係がある、としている。また、阿智神社とともに、北信の戸隠神社とも因縁が深いという。
この地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで、駅馬30頭を配置し、険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として、当社は重要な位置を占めた。
なお、式内社「阿智神社」の論社は他に、先の昼神の式内同名神社がある。飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)、八幡大神(誉田別尊)を勧請して相殿に祀った。
また、安土桃山時代の天正元年(1573年)、松尾城主小笠原信貴が甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江国三井寺から勧請した。
信貴はさらに、三間社流造、間口18尺奥行9尺の善美を尽くした神殿を造営し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。
江戸時代前期の延宝3年(1675年)、神主林杢太夫が拝殿を建立した。江戸時代中期の寛文11年(1771年)、天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿である。
駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重による再建で、正面の金柱、欄間の彩色などに造営当時の華麗さを偲ぶことができる。
現在、この本殿と拝殿は、村の指定文化財であると同時に、県宝に指定されている。また、境内のヒイラギ・サカキも村指定文化財である。
江戸時代には、徳川幕府から朱印領10石が寄進され、慶安2年(1649年)の徳川家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。
鎮座地の地名から清坂社、また、御祭神から新羅大明神・清坂八幡社・八意宮・よさか八幡などと称されたが、幕末までに現社号に改称したと考えられている。
なお、古くは神宮寺として神光寺があったとされている。本尊は文殊菩薩。
御祭神は主祭神が天思兼命。相殿に、誉田別尊(八幡大神)と須佐之男命(新羅明神)を祀る。例祭は4月15・16日。
拝殿の格天井には彩色画が描かれているが、現在までにほとんど退色し、はげ落ちが多い。また、幕末の安政2年(1856年)奉納の相撲奉納額がある。
境内社に、今宮八幡社、諏訪社・皇太神社・秋葉社・稲荷社・日之御子社・津島社、白鬚社・妙義社などがある。
他に多くの石碑・石塔が祀られている。また、境内には、延享年間(1744年-1748年)建立とみられる、狛犬には見えない狛犬が安置されている。
【ご利益】
厄災除け、学業・受験合格
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安布知神社(あふちじんじゃ)は、長野県下伊那郡阿智村駒場にある神社。阿智村役の北約650メートル、国道153を超え、中央自動車道の手前。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 伊那郡「阿智神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
社伝によれば、第16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現れ、山の枯木のもとを掘れとのお告げにより掘ったところ、八花鏡を見出した。
この鏡を御霊代として祠を建てて祀ったのが当社の起源だという。御祭神は天思兼命。
『先代旧事本紀』によれば、天思兼命とその子天表春命はともに信濃国に天降り、阿智祝部らの祖となったとある。
昼神の阿智神社同様、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した、秦氏あるいは阿智使主一族などの帰化人系により奉祀された天孫系の神社であると考えられる。
当社自身、阿智神社の御祭神と同一で、両社は古くより密接な関係がある、としている。また、阿智神社とともに、北信の戸隠神社とも因縁が深いという。
この地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで、駅馬30頭を配置し、険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として、当社は重要な位置を占めた。
なお、式内社「阿智神社」の論社は他に、先の昼神の式内同名神社がある。飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)、八幡大神(誉田別尊)を勧請して相殿に祀った。
また、安土桃山時代の天正元年(1573年)、松尾城主小笠原信貴が甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江国三井寺から勧請した。
信貴はさらに、三間社流造、間口18尺奥行9尺の善美を尽くした神殿を造営し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。
江戸時代前期の延宝3年(1675年)、神主林杢太夫が拝殿を建立した。江戸時代中期の寛文11年(1771年)、天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿である。
駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重による再建で、正面の金柱、欄間の彩色などに造営当時の華麗さを偲ぶことができる。
現在、この本殿と拝殿は、村の指定文化財であると同時に、県宝に指定されている。また、境内のヒイラギ・サカキも村指定文化財である。
江戸時代には、徳川幕府から朱印領10石が寄進され、慶安2年(1649年)の徳川家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。
鎮座地の地名から清坂社、また、御祭神から新羅大明神・清坂八幡社・八意宮・よさか八幡などと称されたが、幕末までに現社号に改称したと考えられている。
なお、古くは神宮寺として神光寺があったとされている。本尊は文殊菩薩。
御祭神は主祭神が天思兼命。相殿に、誉田別尊(八幡大神)と須佐之男命(新羅明神)を祀る。例祭は4月15・16日。
拝殿の格天井には彩色画が描かれているが、現在までにほとんど退色し、はげ落ちが多い。また、幕末の安政2年(1856年)奉納の相撲奉納額がある。
境内社に、今宮八幡社、諏訪社・皇太神社・秋葉社・稲荷社・日之御子社・津島社、白鬚社・妙義社などがある。
他に多くの石碑・石塔が祀られている。また、境内には、延享年間(1744年-1748年)建立とみられる、狛犬には見えない狛犬が安置されている。
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