丹波道主命が創祀、室町期に八幡に合祀、10月秋祭りで黒部の踊子
[住所]京都府京丹後市弥栄町黒部深田411
[電話]-
深田部神社(ふかたべじんじゃ)は、京都府京丹後市弥栄町黒部深田にある神社。竹野川東岸、京都丹後鉄道宮豊線の峰山駅の北東約7.2キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「深田部神社(丹後国・竹野郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
第10代崇神天皇10年、丹波道主命は豊宇気大神の神教「国中に不服者あらば射向けよとの大命」を受けた。
そこで、当国に下り、平定の後、当国を治める際、当地の住民の平穏と五穀豊穣を記念して、豊宇気大神(宇気母智神)を奉斎したのが当社の起源。
深田部の名は「昔当地は海原であったが漸く潮水引き其の跡深き沼田となる。其時の状態自然地名となり深田という」。
奈良時代の神護景雲2年(767年-770年)、備前国上道郡幡多村に御分霊を勧請、これが現在の岡山市中区今谷の深田神社である。
皇族が創祀した社として崇敬され、平安時代中期の長保3年(1001年)、丹後地検帳という古文書に当社の社領地に関する記載があり、往時は大社だった。
しかし、室町時代後期の応仁年間(1467年-1469年)になると、極めて荒廃、宮柱も朽ち果てた状態になったという。
そこで当地住民が相談し、深田山に鎮座していた八幡社(八幡大神。誉田別尊)に遷し、合祀した。
もとの社地は、現在地の北約300メートルほど、小字野崎の岡で、その岡の草叢にはその後一本の榎を植え、永く神跡の証としたという。
現在は黒部小学校の敷地となり、校庭拡張の際、多少移動したが、その榎は今なお現存し、神跡の証となっている。
現在までに他に、天照皇大神、天児屋根命(春日大神)を配祀する。当社神輿三社あり、一つは八幡大神、一つは天照皇大神、一つは天児屋根命。
毎年秋祭の時、本社より南方200メートルほど隔てた神幸所へ行幸する。旧来より各大神に1人の旗本と称するものが供奉する習わしだった。
旗本を出す家は決まっており、天照皇大神は谷口家、八幡大神は藤田家、天児屋根命は垣中家。
江戸時代後期の文政12年(1829年)11月24日、社殿の造営が行われた。おそらく長く八幡と称されてきたと思われるが、明治なり、現社号に復した。
村社に列し、明治40年(1907年)3月1日には神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月9日・10日。
例祭には黒部の踊子が奉納されることで知られる。大太鼓・腰付・ササラ各6人の踊子と鬼1人で構成され、弓持1人と傘鉾(かさぼこ)3基がそれに付く。
鬼を演ずる厄年の大人以外は、すべて少年が踊る。「大将」と呼ばれる大太鼓の打手が踊子を統率する。
風流田楽(ふりゅうでんがく)やその流れをひく風流踊(ふりゅうおどり)の古態をしのばせる芸能であり、芸能史的にも価値が高いという。
境内社に、神功神社(息長帯比売命・帯中日子天皇)、須賀神社(素佐之雄命)、稲荷神社(宇賀能魂命)がある。他に、社日塔と石灯籠がある。
【ご利益】
厄災除け、五穀豊穣、開運招福、事業成功

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『延喜式神名帳』にある「深田部神社(丹後国・竹野郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
第10代崇神天皇10年、丹波道主命は豊宇気大神の神教「国中に不服者あらば射向けよとの大命」を受けた。
そこで、当国に下り、平定の後、当国を治める際、当地の住民の平穏と五穀豊穣を記念して、豊宇気大神(宇気母智神)を奉斎したのが当社の起源。
深田部の名は「昔当地は海原であったが漸く潮水引き其の跡深き沼田となる。其時の状態自然地名となり深田という」。
奈良時代の神護景雲2年(767年-770年)、備前国上道郡幡多村に御分霊を勧請、これが現在の岡山市中区今谷の深田神社である。
皇族が創祀した社として崇敬され、平安時代中期の長保3年(1001年)、丹後地検帳という古文書に当社の社領地に関する記載があり、往時は大社だった。
しかし、室町時代後期の応仁年間(1467年-1469年)になると、極めて荒廃、宮柱も朽ち果てた状態になったという。
そこで当地住民が相談し、深田山に鎮座していた八幡社(八幡大神。誉田別尊)に遷し、合祀した。
もとの社地は、現在地の北約300メートルほど、小字野崎の岡で、その岡の草叢にはその後一本の榎を植え、永く神跡の証としたという。
現在は黒部小学校の敷地となり、校庭拡張の際、多少移動したが、その榎は今なお現存し、神跡の証となっている。
現在までに他に、天照皇大神、天児屋根命(春日大神)を配祀する。当社神輿三社あり、一つは八幡大神、一つは天照皇大神、一つは天児屋根命。
毎年秋祭の時、本社より南方200メートルほど隔てた神幸所へ行幸する。旧来より各大神に1人の旗本と称するものが供奉する習わしだった。
旗本を出す家は決まっており、天照皇大神は谷口家、八幡大神は藤田家、天児屋根命は垣中家。
江戸時代後期の文政12年(1829年)11月24日、社殿の造営が行われた。おそらく長く八幡と称されてきたと思われるが、明治なり、現社号に復した。
村社に列し、明治40年(1907年)3月1日には神饌幣帛料供進社に指定された。例祭は10月9日・10日。
例祭には黒部の踊子が奉納されることで知られる。大太鼓・腰付・ササラ各6人の踊子と鬼1人で構成され、弓持1人と傘鉾(かさぼこ)3基がそれに付く。
鬼を演ずる厄年の大人以外は、すべて少年が踊る。「大将」と呼ばれる大太鼓の打手が踊子を統率する。
風流田楽(ふりゅうでんがく)やその流れをひく風流踊(ふりゅうおどり)の古態をしのばせる芸能であり、芸能史的にも価値が高いという。
境内社に、神功神社(息長帯比売命・帯中日子天皇)、須賀神社(素佐之雄命)、稲荷神社(宇賀能魂命)がある。他に、社日塔と石灯籠がある。
【ご利益】
厄災除け、五穀豊穣、開運招福、事業成功

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