5月宮津祭、10月境内の式内・杉末神社の赤ちゃん初土俵入
[住所]京都府宮津市宮町1408
[電話]0772-22-3356
日吉神社(ひよしじんじゃ)は、京都府宮津市宮町にある神社。近代社格では府社。京都丹後鉄道宮豊線の宮津駅の北西約1.5キロ。山王宮日吉神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社記によれば、平安時代後期、当地にあった杉末神社の境内に大山咋神・大己貴神を勧請したことが当社の起源。
この杉末神社は現在、当社の境内摂社として、当社本殿右隣に鎮座する。『延喜式神名帳』にある「杉末神社(丹後国・与謝郡)」に比定される式内社(小社)。
杉末神社は、飛鳥時代、第30代敏達天皇元年(572年)の鎮座と伝わる。現在も、当社行事として有名な赤ちゃん初土俵入が行われる。
宮津で唯一の式内社で、宮津最古の神社。宮津の地に人々が住み着いた遙か昔から、宮津の守り神として崇敬された。
宮のある船の着くところの意とされる「宮津」という地名の由来ともなったとされる。戦国時代、舞鶴城へ急ぎ帰る細川氏を宮津の漁師が助けたため、太刀が授けられた。
その頃の漁師は現在の漁師町ではなく、宮津の浜各所に住んでおり、漁師はその太刀を杉末神社に奉納したと記録されている。
江戸時代になると、歴代宮津藩主は当社を宮津の総氏神として、藩の守護神と位置付けた。本殿や幣殿、神輿や石灯籠まで、藩主により再建、造営されるようになった。
この流れの中で、式内社だった杉末神社が当社の境内摂社となり、宮津西地区の守り神となったという。
江戸時代中期の文書では宮津の城下のほぼ全てが当社の氏子だった。そうした中で続いてきたのが、当社の例祭である山王祭である。
藩祭とされた山王祭は、城下上げての大祭で、武家、町民挙って参加したという。宮津祭とも呼ばれる。
現在の例祭は5月15日。やはり山王祭であり、宮津祭。神輿を中心に太神楽、威儀物行列、そして浮太鼓が続く賑やかな祭礼。
以前は職人町(現 宮本町)、本町、魚屋町から白柏、川向までの八町が子供歌舞伎を演じる芸屋台を繰り出して当社に参詣した。
現在は芸屋台はないが、祭礼は古式通りに続けられており、神輿は山王宮から宮津湾の対岸の波路まで約12キロを巡り、宮津の平安が祈り続けられている。
クライマックスは神輿の「御宮入」、還御の儀。「ヨイヤー・サー」という宮入独特の掛け声と、そこに重なる浮太鼓の響きに包まれながら石段を登る。
10月10日は杉末神社の例祭。山王祭が宮津祭と呼ばれたのに対し、杉末神社例祭は西祭、また甘酒祭と呼ばれたと記録されている。
赤ちゃん初土俵入が行われる。江戸時代中期から地元力士が執行した奉納花相撲の影響を受けて始まったものとされる、長い歴史がある。
氏子中の有力な家々がその屋号などをもとにした化粧回しを作り、その息子達を土俵に上げたのが始まりだという。
現在の本殿は貞享5年(1688年)、宮津藩主阿部正邦により再建されたもの。向拝のある檜皮葺・入母屋造りで日吉造。御扉上には三猿像を配した蛙又がある。
この本殿は府指定文化財。拝殿は江戸時代後期の天保5年(1834年)、藩主本荘宗發により創建されたもの。入母屋・銅板葺き。府登録文化財である。
この拝殿内に、市の指定文化財である「山王祭礼図絵馬」がある。絵の具の剥落防止のため、現在は覆って保護されている。
杉末・恵比寿神社も江戸時代後期に再建されたもので、本殿の左右に配置されている。ともに彫刻の美しい神社で、平成の大修理により屋根は軒檜皮銅板葺きに改められた。
杉末神社の横の船玉神社とともに、これら境内三社の社殿も府登録文化財。含紅桜と漱玉亭さざんかが市指定天然記念物。
含紅桜は、藩主永井尚長により名付けられた桜で、永井侯は延宝4年(1676年)、この桜を日本一と称える詩を詠んでいる。推定樹齢400年。
今は空洞となり、皮だけで生き続けているが、春には昔と変わらぬ美しい花が開く。
漱玉亭さざんかは、江戸時代初期、藩主京極侯が境内に別邸を設け、その庭園の石組みに配された庭木。毎年11月には満開の花を付け、境内は甘い香りに包まれる。
その別邸庭園跡が漱玉亭庭園跡として市の史跡に指定されている。当時は池を掘り、その上に巨石を組み合わせて川の水を引いて滝を作ったという。滝上山の由来。
江戸時代前期の正保3年(1646年)に奉納された神猿像が伝わる。また、江戸時代後期、画家佐藤正持により描かれた御神影図がある。
丹後宮津藩第6代藩主の本荘宗秀(松平宗秀)、7代かつ最後の藩主本荘宗武(松平宗武)奉納の神額「松賀尾加大神」もある。
【ご利益】
厄災除け、地域安全、身体壮健、健康長寿(公式HP)
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日吉神社(ひよしじんじゃ)は、京都府宮津市宮町にある神社。近代社格では府社。京都丹後鉄道宮豊線の宮津駅の北西約1.5キロ。山王宮日吉神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社記によれば、平安時代後期、当地にあった杉末神社の境内に大山咋神・大己貴神を勧請したことが当社の起源。
この杉末神社は現在、当社の境内摂社として、当社本殿右隣に鎮座する。『延喜式神名帳』にある「杉末神社(丹後国・与謝郡)」に比定される式内社(小社)。
杉末神社は、飛鳥時代、第30代敏達天皇元年(572年)の鎮座と伝わる。現在も、当社行事として有名な赤ちゃん初土俵入が行われる。
宮津で唯一の式内社で、宮津最古の神社。宮津の地に人々が住み着いた遙か昔から、宮津の守り神として崇敬された。
宮のある船の着くところの意とされる「宮津」という地名の由来ともなったとされる。戦国時代、舞鶴城へ急ぎ帰る細川氏を宮津の漁師が助けたため、太刀が授けられた。
その頃の漁師は現在の漁師町ではなく、宮津の浜各所に住んでおり、漁師はその太刀を杉末神社に奉納したと記録されている。
江戸時代になると、歴代宮津藩主は当社を宮津の総氏神として、藩の守護神と位置付けた。本殿や幣殿、神輿や石灯籠まで、藩主により再建、造営されるようになった。
この流れの中で、式内社だった杉末神社が当社の境内摂社となり、宮津西地区の守り神となったという。
江戸時代中期の文書では宮津の城下のほぼ全てが当社の氏子だった。そうした中で続いてきたのが、当社の例祭である山王祭である。
藩祭とされた山王祭は、城下上げての大祭で、武家、町民挙って参加したという。宮津祭とも呼ばれる。
現在の例祭は5月15日。やはり山王祭であり、宮津祭。神輿を中心に太神楽、威儀物行列、そして浮太鼓が続く賑やかな祭礼。
以前は職人町(現 宮本町)、本町、魚屋町から白柏、川向までの八町が子供歌舞伎を演じる芸屋台を繰り出して当社に参詣した。
現在は芸屋台はないが、祭礼は古式通りに続けられており、神輿は山王宮から宮津湾の対岸の波路まで約12キロを巡り、宮津の平安が祈り続けられている。
クライマックスは神輿の「御宮入」、還御の儀。「ヨイヤー・サー」という宮入独特の掛け声と、そこに重なる浮太鼓の響きに包まれながら石段を登る。
10月10日は杉末神社の例祭。山王祭が宮津祭と呼ばれたのに対し、杉末神社例祭は西祭、また甘酒祭と呼ばれたと記録されている。
赤ちゃん初土俵入が行われる。江戸時代中期から地元力士が執行した奉納花相撲の影響を受けて始まったものとされる、長い歴史がある。
氏子中の有力な家々がその屋号などをもとにした化粧回しを作り、その息子達を土俵に上げたのが始まりだという。
現在の本殿は貞享5年(1688年)、宮津藩主阿部正邦により再建されたもの。向拝のある檜皮葺・入母屋造りで日吉造。御扉上には三猿像を配した蛙又がある。
この本殿は府指定文化財。拝殿は江戸時代後期の天保5年(1834年)、藩主本荘宗發により創建されたもの。入母屋・銅板葺き。府登録文化財である。
この拝殿内に、市の指定文化財である「山王祭礼図絵馬」がある。絵の具の剥落防止のため、現在は覆って保護されている。
杉末・恵比寿神社も江戸時代後期に再建されたもので、本殿の左右に配置されている。ともに彫刻の美しい神社で、平成の大修理により屋根は軒檜皮銅板葺きに改められた。
杉末神社の横の船玉神社とともに、これら境内三社の社殿も府登録文化財。含紅桜と漱玉亭さざんかが市指定天然記念物。
含紅桜は、藩主永井尚長により名付けられた桜で、永井侯は延宝4年(1676年)、この桜を日本一と称える詩を詠んでいる。推定樹齢400年。
今は空洞となり、皮だけで生き続けているが、春には昔と変わらぬ美しい花が開く。
漱玉亭さざんかは、江戸時代初期、藩主京極侯が境内に別邸を設け、その庭園の石組みに配された庭木。毎年11月には満開の花を付け、境内は甘い香りに包まれる。
その別邸庭園跡が漱玉亭庭園跡として市の史跡に指定されている。当時は池を掘り、その上に巨石を組み合わせて川の水を引いて滝を作ったという。滝上山の由来。
江戸時代前期の正保3年(1646年)に奉納された神猿像が伝わる。また、江戸時代後期、画家佐藤正持により描かれた御神影図がある。
丹後宮津藩第6代藩主の本荘宗秀(松平宗秀)、7代かつ最後の藩主本荘宗武(松平宗武)奉納の神額「松賀尾加大神」もある。
【ご利益】
厄災除け、地域安全、身体壮健、健康長寿(公式HP)
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