仁徳皇后の八田皇女が名代として矢田部を置いた物部ゆかりの地
[住所]京都府与謝郡与謝野町石川字矢田4626
[電話]-
矢田部神社(やたべじんじゃ)は、京都府与謝郡与謝野町石川にある神社。京都丹後鉄道宮豊線の与謝野駅の南約3.3キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「矢田部神社(丹後国・与謝郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。もとは加悦町番河に鎮座し、後に流失したため遷座したとも、浪江の入り口北方、南受けの田地を矢田部と称し、旧地だったともされている。
第16代仁徳天皇の皇后となった八田皇女が名代として矢田部を置き、「物部大別連」を矢田部造とし、部民の矢田部により当社は奉斎されたともいう。
以来、現在地の石川を中心に、物部氏ゆかりの地となった。御祭神は、伊香色雄命とも、武諸隅命ともされるが、いずれも矢田部氏の祖神である。
丹後国には、与謝郡に物部神社があり、熊野郡と丹波郡に式内社「矢田神社」があり、いずれも物部氏と関係しているとされ、当社との関係も考えられている。
熊野郡の式内社「矢田神社」は京丹後市の久美浜町海士の矢田神社と佐野の矢田八幡神社が論社で、丹波郡の式内社「矢田神社」は峰山町矢田の矢田神社に比定されている。
物部氏が滅んだ後、『延喜式』以降だろうか、中世には社運が傾き、小森十明神、矢田荒神などと呼ばれ、荒神崇拝と混淆しながらわずかに存続したという。
江戸時代後期の文化11年(1814年)、氏子中により花崗造り明神形の鳥居が寄進され、これが現存する。
また、天保14年(1843年)の棟札が現存する。「奉納弥田神社小森大明神成就棟上」とある。現在の神殿はこの時再建されたものと考えられている。
神殿は流造、こけら葺き、建袖形式は整っているが、構造は全体に平易・簡明な造りで煩わしい但物彫刻を避けた、清楚な形。
明治6年(1873年)2月、村社に列した。例祭は4月24日で、太刀振りが奉納される。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、厄災除け
【関連記事】
・京都府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、京都府に鎮座している神社の一覧
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矢田部神社(やたべじんじゃ)は、京都府与謝郡与謝野町石川にある神社。京都丹後鉄道宮豊線の与謝野駅の南約3.3キロ。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「矢田部神社(丹後国・与謝郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創祀年代は不詳。もとは加悦町番河に鎮座し、後に流失したため遷座したとも、浪江の入り口北方、南受けの田地を矢田部と称し、旧地だったともされている。
第16代仁徳天皇の皇后となった八田皇女が名代として矢田部を置き、「物部大別連」を矢田部造とし、部民の矢田部により当社は奉斎されたともいう。
以来、現在地の石川を中心に、物部氏ゆかりの地となった。御祭神は、伊香色雄命とも、武諸隅命ともされるが、いずれも矢田部氏の祖神である。
丹後国には、与謝郡に物部神社があり、熊野郡と丹波郡に式内社「矢田神社」があり、いずれも物部氏と関係しているとされ、当社との関係も考えられている。
熊野郡の式内社「矢田神社」は京丹後市の久美浜町海士の矢田神社と佐野の矢田八幡神社が論社で、丹波郡の式内社「矢田神社」は峰山町矢田の矢田神社に比定されている。
物部氏が滅んだ後、『延喜式』以降だろうか、中世には社運が傾き、小森十明神、矢田荒神などと呼ばれ、荒神崇拝と混淆しながらわずかに存続したという。
江戸時代後期の文化11年(1814年)、氏子中により花崗造り明神形の鳥居が寄進され、これが現存する。
また、天保14年(1843年)の棟札が現存する。「奉納弥田神社小森大明神成就棟上」とある。現在の神殿はこの時再建されたものと考えられている。
神殿は流造、こけら葺き、建袖形式は整っているが、構造は全体に平易・簡明な造りで煩わしい但物彫刻を避けた、清楚な形。
明治6年(1873年)2月、村社に列した。例祭は4月24日で、太刀振りが奉納される。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、厄災除け
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