馬頭観音、奈良朝創祀とも、平安期に本宮から遷祀とも
横山神社 滋賀県長浜市高月町横山697-1
[住所]滋賀県長浜市高月町横山297-1
[電話]-

横山神社(よこやまじんじゃ)は、滋賀県長浜市高月町横山にある神社。参拝すれば、「馬頭観音」などとある御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「横山神社(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

琵琶湖の北東岸。北陸本線の木ノ本駅と高槻駅の間、北陸自動車道の木ノ本ICの南すぐ。近くには、兵主神社がある。

社伝によれば、第33代推古天皇元年(593年)、横山大明神が、高時川上流にある木之本町杉野の滝のほとりにある杉の巨木に、白馬に乗って降臨した。

現在の杉野本宮横山神社である。本宮横山神社は「大山祇命式内横山神社」として篤く崇敬されたという。

『延喜式』後、平安時代の天徳元年(957年)、時の神主であった横山将艦が現在地に勧請し、本地馬頭観音像を遷座したと伝えられる。

この馬頭観音像が現存する。ただし、現存の像は実際には平安末期から鎌倉初期にかけての作とされ、天徳元年当時の観音像とは別物の可能性もある。

なお、当社の草創について、滋賀県神社庁では、奈良時代末期、第49代光仁天皇(在位:770年-781年)の御宇、淡海真人三船が勧請した、としている。

かつて近江を支配していた佐々木氏の重臣である千田・磯野・布施・赤尾のいわゆる江北四家からの崇敬が篤かったと伝わる。

特に磯野氏からの崇敬は格別だったようで、磯野氏の系図には、本宮横山神社の創祀伝承が詳細につづられている。

この四氏は、この明神の霊夢をいただき、神前で家督を相続したと伝わる。伊香郡において「伊香九郷の大社」と称され、栄えた。

しかし安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、織田信長の兵火で焼かれた。その後再建。明治9年(1876年)、村社に列し、明治41年(1908年)には神饌幣帛料供進社に指定された。

御祭神は、大山祇命少彦名命・泉龍大神で、横山大明神と総称される。例祭は4月1日。2月11日におこないがある。

毎年8月第1日曜日に「観音の里たかつきふるさとまつり」がある。いつもは「高月観音の里 歴史民俗資料館」に預けられている馬頭観音像が里帰りし、拝観できる。

像高100センチ、ヒノキの一木造り。忿怒の顔をしていることが多い馬頭観音だが、当社の像はふくよかで優しそうな感じを受ける。

両肩より先・脇手・持物・両足先はすべて後世の修理によるもの。また、台座・光背・頭上の馬頭・脇面の炎髪・眼・口の彩色も後に補修されている。

近江国では、馬頭観音が祀られているのは湖北地方に集中している。湖北地方の中でも長浜だけで六軀を数える。当社のものは、鶏足寺のものと並んで有名。

鶏足寺は当社から北東、己高山の方にあるが、ここに伝わる像は「十所権現」と呼ばれる本地仏郡像で、その中の一軀に「横山大明神坐像」があり、馬頭観音。

当地で信仰の篤い馬頭観音ではあるが、当地では馬頭観音と言えば横山大明神であり、当社神を連想させる。それほど当地に信仰が根付いていることになる。

当社の本殿は一間社流造、間口1間3尺、奥行1間3尺。拝殿は切妻造、間口2間3尺、奥行2間3尺。境内社に、八幡神社・天満宮・稲荷神社・兵主神社がある。

当社社号標には「式内 横山神社」とある。ただし、当社由緒によれば、当地への遷座は式内後。当社も認めている杉野の本宮がやはり式内社か。

【ご利益】
地域安全、家内安全、病気平癒
横山神社 滋賀県長浜市高月町横山
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